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僕たちは欠けている

#4

 音を聞く。耳ではなく、全身で。
 自分の身体が、大きなアンプリファイアーになったように感じる。聞いて、共鳴し、エネルギーを加えて、増幅する。そういう装置そのものになったかのように。
 それは、音楽だけに限らない。一緒に踊っている人に対しても同じだ。心臓の鼓動、呼吸の速度、筋肉の収縮、骨の軋み、ジャンプに入る前の足が、氷に踏み込むその一瞬の判断……そういうものすべてが、まるでごく微細な信号になって空中を漂っているかのように、自然に伝わってくる。俺はただそれをそのまま受け止めて、共鳴し、エネルギーを加えて増幅すればいい。簡単なことだ。
 そう、簡単なことだった。
 俺たちにとって、それは例えば呼吸だとか、食事だとか、夜寝て、朝起きて、運動して、笑いあって話すのと同じくらい簡単なことだったんだ。
 ほんの少し前までは。


「やめろ!」
 大きな声がリンクに響いて、曲が止まった。
 ステップを踏んでいる途中だった俺の身体は、くすぶった熾火みたいに残りの振りを軽く流してから沈黙する。一緒に滑っていた勇利もそれは同じで、どこか不満そうな顔で額の汗を袖でぬぐっている。でも多分、不満なのは止められたことそのものに対してじゃないだろう。
「まったくなっとらん! なんだそのステップは! 合わせる気があるのかお前ら!」
「でもヤコフ、今のはたまたま……」
「たまたま!?」
 ヤコフが食って掛かってきて、思わず首を竦めてしまう。別に、怒鳴り声が怖いわけじゃない。ヤコフの言いたいことが誰よりもよく分かるからだ。
「たまたまだと? お前、本気で言っとるのか」
「……『今日はずっと』、だったね」
 ふん、とヤコフが鼻を鳴らす。勇利は黙って足元の氷を見ている。その表情からは、何を考えているのかまでは読み取れない。
「『ここのところずっと』だ馬鹿者。曲なんてかけとる場合か。その前にもっとやることがあるだろう」
「でもヤコフ……」
「でももだってもないわ!」
 また、反射的に首を竦める。俺は苦笑して首を傾げた。このまま話を続けたらヤコフの頭の血管が切れちゃいそうだ。
「勇利、一度休憩しよう」
「でもまだ……っ」
「もう朝からずっと滑ってる。何にしてもそろそろ休まないと」
「……うん」
 沈んだ声がつきりと胸に突き刺さる。選手にこんな浮かない顔をさせるなんて、コーチとしてもペアのパートナーとしても失格だ。
 横目で勇利の顔を見る。視線は合わない。勇利はじっと足元の氷を見つめている。
 そういえば、ここ最近勇利の目を見ていない気がする。……『ここ最近』?
 違う。あれからだ。俺が、勇利にキスをしてしまった日から。
 あれから、俺たちの間の何かが決定的に変わってしまった。ペアの練習がうまくいかないのも、勇利と視線が合わないのも、全部それが原因な気がしてならない。でも、あの一件で具体的に何が変わったのかと言われると途端に分からなくなる。
 何も変わってないからだ。勇利も平然としているし、俺もそれ以前と変わらないように振舞っている。変わらない会話、変わらない表情、変わらないしぐさ、変わらない生活……ただ、目線だけが合わない。
 変わらない日常という薄膜に覆われたまま、俺たちの関係性の根幹が大きく揺らいでいる。
 でも、どうしたらそれが元に戻るのか分からない。元に戻すことができるかどうかすら、確信が持てないでいる。
 俺がキスなんてしなければ。
 あの一線を越えなければ。あの衝動をちゃんと抑えられていれば。こんなことには……。
 頭を振って、その考えを吹き飛ばす。今更後悔したって遅い。気づくのはいつだって後からだ。
「勇利」
 押し黙ったままスケートシューズを脱ぐ勇利に声をかける。
「コーヒーでも飲もうか」

   ◇

「お待たせしました、ドリップコーヒーとカフェラテです」
 女性店員が、そう言いながらトレーにふたつのカップを置いた。片方のカップの蓋には黒いマジックで「ラテ」と書かれている。
 俺は彼女の顔を見つめた。
 栗色の髪。細い指先。純情可憐な乙女。
「……なにか?」
「ううん、なんでもないよ。ありがとうクリスチーナ」
 にっこり笑ってそう言うと、クリスチーナもつられて微笑む。笑うと途端に幼い顔になる、かわいらしい人だ。ギオルギーが惚れるのも分かるような気がした。
 トレーを持ってベンチに戻ると、勇利は窓台に肘をついて外を見ていた。
 空はよく晴れている。窓のすぐ外に植えられたリラの花が、澄んだ日差しを受けて白く輝いている。表に出れば、きっと甘酸っぱい匂いが香り立っていることだろう。
「おまたせ」
 ラテを渡すと、勇利は、ありがとう、と言ってうれしそうに受け取った。
 一瞬視線がこちらを向く。でも俺と目が合う前にわずかに下を向いてしまう。
 俺と勇利の目が合うことはない。心と心は通じ合わない。感情の流れは途中で断線する。間違って繋がった電話回線。せき止められた用水路の水。行き先を見失った紙飛行機。
 勇利が悪いわけじゃない。むしろ悪いのは俺の方だ。
 俺が、あんなことさえしなければ。
 考えたって仕方のないことを考えながら、勇利の隣に腰を下ろす。
「いい天気だね」
「うん」
 それっきり、会話は途絶えた。黙ったまま、なんとはなしにコーヒーを飲んで、時間が漫然と流れていくのをただ見つめる。
 スポーツクラブの中に併設されているこのカフェには、俺たちのようなフィギュアスケート選手の他に、ホッケー選手やスピードスケート選手も訪れる。もちろん、一般の人も大勢利用している。
 目の前を、小さな子供を連れた母親が通り過ぎた。子供の手にはチョコレートのかかったドーナッツがあり、子供の視線は一心にそれに注がれている。前を見ようともしない彼のもう一方の手を母親が繋いで、窓辺のテーブルへと導いていく。
「僕がスケートを始めたのも、あれくらいの歳だった」
 ふいに勇利が言った。
「ミナコ先生に勧められて、初めてリンクの上に立った。最初はすごく怖かったよ。あっという間にころんじゃったし。……でもね、氷の上に座りながら他の子たちがスイスイ滑ってるのを見て、『これだ!』って思ったんだ。よく分からないけど、『これしかない』って」
 他の子、というのは、例えば、優子とか……なんて考えて、そんなことばかり考える自分が嫌になる。
「あのときの自分の直感は正しかったなって今でも思うんだ。僕は他に何もできない。でも、スケートでならどんなことだってできる。普段じゃ絶対言えないことも、氷の上でなら表現できる。新しいプログラムを通してそれまで知らなかった感情を知ることもできる。きっと、他の人が別の方法で学んでいる人生のいろんなことを、僕はスケートを通して理解してるんだ」
 勇利の人生は、文字通りスケートと共にある。それは、俺たちフィギュアスケート選手にとっては珍しいことじゃない。いや、スケーターに限らず、きっと誰しもがそうなんだろう。どんな人も、その人生を解釈して表現するためのフィルターみたいなものを持っている。例えば小説家が小説を書くように、アーティストがキャンバスに絵の具を乗せるように、俺たちはスケートと共に生きている。ごく、自然に。
「『Yuri on ICE』で、僕は愛のようなものを表現したでしょ? あのプログラムを滑っているうちに、その先まで見えてくるような気がしたんだ」
「『その先』?」
「うん」
 勇利はそこで少しためらった。表情をうかがうと、ちょっと照れくさそうにしていた。
「なんて、言ったらいいか分からないけど、別の種類の愛。……『愛のようなもの』じゃなくて、多分、もっと……」
「『愛そのもの』?」
「……あ、えっと……いや…………うん」
 ああそうか、と思った。自分の心が、その場からすうっと遠ざかっていく気がした。逆かもしれない。勇利が、俺の隣から音もなく離れていくような気がした。
 そうか、勇利は、今初めてそれを知ったのか。『Yuri on ICE』をワンシーズン滑り通したことで、初めて。
 優子への気持ちに、気づいたのか。
 きっと、それはずっと勇利の心の中にあったんだろう。でも、勇利は不器用で純粋な人間だ。自分自身の感情にも目を向けないまま、ここまできてしまったんだろう。相手が共通の友人と結ばれているという遠慮もあったかもしれない。無意識のうちに、勇利はその気持ちを押し殺していたんだ。
 でも、スケートを通して自分の周りにある愛に向き合うことで、勇利はついに自覚した。
 自分の中にある、他とは違う愛に。
 特別な人にだけ向けられる、愛そのものに。
「『ラブミーテンダー』で、今度はそれを表現できると思ってた。……でも、よく分からなくなっちゃった」
「……それは、なぜ?」
「うーん……なんでだろうね?」
 勇利が苦笑しながら首を傾げる。
 それには、俺がキスしたことが関係しているのだろうか? ……関係している、気がする。きっと、勇利はそこでまた気づいたんだ。俺に向ける愛と、キスをするような愛がまったく違うものだということに。
 その考えは、俺の気持ちを深く沈めてしまう。どうしようもない。どうやったって勝てない。救いようがない。勇利が優子への気持ちを押し殺したように、俺の方こそこの気持ちを消し去ってしまわなければならない。
 そう考えると悲しくなる。
 無性に、悲しくなる。
「『愛して』なんて言えるのは、愛されてることが分かってる人だけだ」
 ぽつりと勇利が呟いた。俺に語り掛けるというよりも、頭の中で考えたことがそのまま口から零れてしまったかのような口調。
「愛されてないことが分かってるのに、『愛して』なんて言えない」
『ラブミーテンダー』――やさしく愛して。
 確かに勇利の言う通りだ。
 勇利が優子に対して思っているであろう気持ちと同じものを、俺は勇利に対して今感じている。
 愛してくれないことが分かっている人に、「愛して」なんて言えない。余程の勇気と覚悟を持って言ったとしても、相手を困らせるだけだ。困らせた末の結末は……考えたくもない。
「……『ラブミーテンダー』が難しければ、曲を変えてもいいよ」
「え?」
「まだ本番までに時間はある。『愛そのもの』に取り組むのは今度にしたっていい。焦ってこなさなきゃいけないテーマじゃないし、むしろ納得できるまで時間をかけるべきものだ。もし他の曲の方が俺と合わせやすいなら、今からそっちにしてもいいよ」
「でも、振り付けが……」
「そんなのすぐに作れる。勇利とのペアのレパートリーが増えることになるんだ。俺としては大歓迎だけど」
 人差し指を口の前に当てておどけてみせる。
 気づかないでほしい。本当は、勇利じゃなくて俺がその曲をやめたいと思っていることに。勇利を尊重するように見せかけて、俺自身を守ろうとしていることに、どうか、どうか、気づかないでほしい。
 ラブミーテンダーで俺と勇利の息が合わないのは、おそらく、勇利じゃなくて俺の方の問題だ。……認めよう。俺は、勇利にそのプログラムを完成させてほしくないと思っている。その曲を通じて、勇利が優子への気持ちを確信してしまうことを恐れている。そのせいで、真摯に曲に向き合う勇利とうまく同調できないんだろう。
 最低だ。ひとりのスケーターとしても、勇利のコーチとしても、こんなことを思うべきじゃない。やめなきゃいけない。俺は、スケーターとしての勇利の成長を助けなきゃいけない。歓迎して、見守らなければいけない。こんな私情を、挟むべきじゃない。
 それなのに、心が言うことをきかない。自分自身が、言うことをきかない。
 自分の心がこんな不具合を持っているなんて知らなかった。勇利が、こんな俺を知ったら、きっと幻滅する。
 きっと、俺のことを嫌いになる。
 きっと。
「ごめん、でも……もう少し、この曲に挑戦したい」
 勇利の返事を聞いて、俺はがっかりすると同時にほっとした。自分の思う通りに勇利を誘導しようとしたくせに、勇利がその通りに動かないことに安心する。俺の心の醜い部分が、勇利の進む道に影響を与えなかったことに安堵する。
 矛盾している。俺はどうしてしまったんだろう?
「諦めたくないんだ。……この曲は、どうしても」
 それは、優子への気持ちを諦めたくないから?
 愚かな問いを飲みこんで、俺は笑顔で頷いてみせる。
「オーケー。一緒にあの曲を完成させよう」
 俺は勇利のコーチだ。
 そのプライドだけが、俺を支えた。


 しかし、俺たちの決意とは裏腹に、ラブミーテンダーの出来は一向によくならなかった。むしろ日に日に悪くなっていったと言っても過言じゃない。
 ジャンプのタイミングは合わなくなり、ステップは揃わなくなった。リフトを失敗することも多くなった。今までできていたはずの箇所まで小さなミスが重なるようになった。ヤコフに指摘されるまでもなく、全部がうまくいっていない自覚はあった。俺にも、もちろん、勇利にも。
 勇利の口数は減っていった。
 不安になったときはいつもそうするように、勇利は過度な練習をしたがった。でも、若いころのようにがむしゃらに頑張ったところで身体を壊すだけだ。コーチとして、俺はオーバーワークを止めなきゃならない。「ダメだ」と勇利に告げる度、俺の心は罪悪感にさいなまれた。
 不思議だね。コーチとして正しいことをしているはずなのに、俺自身のわがままでそう言っているように感じてしまったんだ。つまり、勇利にあのプログラムを完成させてほしくないから、俺が邪魔をしているかのように。練習を止めたのは、誓ってそんな気持ちからじゃない。純粋にコーチとしての判断だ。でも段々と、勇利のコーチである自分と、自分の本当の心の区別が分からなくなっていった。
 苦しかった。
「もう、曲を変えようか?」
 俺は何度か同じ提案を繰り返した。
 勇利の返事は決まっていた。
「いやだ。諦めたくない」
 その言葉に、何度でも傷つく自分が嫌だった。
 優子を想う勇利の姿はまっすぐで、純粋で、俺がずっとそばで見てきた勇利そのものだった。純粋なものは高潔で美しい。一途に優子を想う勇利は美しかった。
 それに引き換え、俺の心はひどく醜い。目を背けたくなるくらい醜悪な嫉妬心。傷つきやすい脆い心。身勝手で幼い感情。自分にそんな面があるだなんて、それまで一度だって思ったことはなかった。できることなら一生知りたくなかった。自分の心の、ボロボロに欠けたみっともない部分を、真正面から直視し続けるような日々。
 俺の心も、勇利の体力も限界に近づいてきたころだった。
 この街に雨が降った。
 朝から曇りがちだった空は、昼になってとうとう限界を迎えたらしい。夕方にかけて雨脚は徐々に増していき、リンクの一面を覆う巨大なガラス窓を激しく叩いた。滝のようになった水の流れがガラスの上を幾筋も這っていた。
 練習している間、勇利はずっと雨のことを気にしていた。なぜかは分からなかったが、しきりに窓の外ばかりに目をやっていたんだ。集中できないようだったので、その日は早めに切り上げてふたりで家に帰った。
 そう、雨が降っていたんだ。すべてを押し流してしまうような、激しい雨が。
 勇利がいなくなったのは、その日の夜のことだった。
 
   ◇

 夢を見ていた。
 勇利と一緒に夕食を食べた後、ソファーに横になっているうちにうたたねをしてしまったんだ。
 遠い昔の、ある日の夢。
 明るいバスルーム。手の中の鋏。タイルに散らばる銀色の髪と、首を傾げるマッカチン。それから、むせかえるほどの、甘酸っぱいリラの花の匂い。
 音楽が鳴っている。ノイズ交じりのラブミーテンダー。リビングのラジオから聞こえているはずなのに、その音は現実味がないほど大きい。すべての音をかき消すくらいの大音量。でもまったくうるさいとは思わない。その曲は不思議なほど耳によく馴染む。
 どこか懐かしいギターの響き。かすれた歌声。
 やさしく愛してほしい、と、語り掛けるような歌詞。
「××××××××××」
 鏡の中の俺が、笑いながら何か言う。でも、その音は聞き取れない。聞こえるのは、思考を埋め尽くすようなラブミーテンダーの歌声だけ。
 何を言っているのか確かめようと、自分の口元を注視する。その瞬間、鏡に映っている人物が俺から勇利に切り替わる。テレビのチャンネルを切り替えるみたいに、パチッと。瞬間的に。
 勇利は俺を見ない。その目は、わずかに下を向いている。思いつめた表情で、勇利が口を開く。大音量のラブミーテンダーの中で、その声だけは妙にはっきりと耳に届く。
「諦めたくない」
 

 はっとして目が覚めた。
 呼吸が乱れている。はあ、はあ、と大げさに酸素を取り込みながら上体を起こすと、ソファーの横に伏せていたマッカチンが顔を上げてクウンと鳴いた。
 リビングの電灯が妙に明るく感じられる。家の中はしんと静まり返っていた。
 嫌な予感がした。
「勇利?」
 声に出してみる。その音は、誰もいない空間特有の響き方をして、部屋の壁に吸い込まれていった。
 人の気配がない。
 ぞっ、と、うなじの毛が逆立った。喉がカラカラに乾いている。
 起き上がって、キッチンを覗いてみる。――誰もいない。
「勇利」
 返事はない。
 勇利の部屋のドアをノックする。返事がないので、声をかけながら少しだけドアを開けてみる。――いない。
 寝室。――いない。
 バスルーム。――いない。
 トイレ。――いない。
 もう一度リビング。――いない。
 いない。いない。いない。
 勇利が、いない。
 玄関を見てみる。勇利の靴は――ない。傘も一本なくなっている。
 落ち着け、と、自分に言い聞かせる。
 出かけたんだ。俺が寝てる間に、少し用があって出かけただけ。……でも、どこへ? 外からはかすかに雨の音が聞こえてくる。
 出かけた? こんな夜中に? 雨の中? 俺に何も告げずに?
 そこでようやく携帯を見ることを思い出して、慌ててポケットから取り出す。しかし、そこに期待したようなメッセージは届いていなかった。勇利の番号を呼び出して、すぐさま電話をかけてみる。
『おかけになった番号は、電源が切られているか、電波の届かないところに――』
 コール音すら鳴らずに、無情なほど機械的なメッセージが流れてくる。全部聞き終わる前に、通話終了ボタンを押した。
 すぐさまメッセージを送ってみるが、当然のように既読のマークはつかない。
 心臓が、全力で走った後みたいに、ドッドッドッと激しく拍動している。
 いなくなった。……勇利が、いなくなった。
 全身からぶわりと汗が噴き出した。
 クウン、と足元でマッカチンが心配そうな声を上げる。
「マッカチン……」
 その声は、情けないほど震えていた。胸に手を当てて、なんとか気持ちを落ち着かせる。
 大げさだ。自分に言い聞かせる。
 勇利だって子供じゃない。外に出かけることだってあるだろう。俺が眠っていたから遠慮して声をかけなかったのかもしれない。携帯は、たまたま充電をし忘れているだけだ。俺が眠っていたのは約二時間。勇利が何時ごろ出かけたのかは分からないが、もしかしたら、俺が目覚めるほんの数分前のことなのかもしれない。ちょっとした散歩に出ているだけ。もう少し待ったら、けろっとした顔で帰ってきて、「ヴィクトルどうしたの?」なんて、のんきなことを言うかもしれない。きっとそうだ。そうに違いない。
 でも、そう考える心の一方で、不安な気持ちは雨雲のように重苦しく膨らんでいく。
 散歩? この雨の中? こんな夜中に一体何の用事があって外出するんだ? このあたりに夜やっているような店はない。そんな用事があるなんてことも、勇利は一言だって言わなかった。ケロッとした顔で帰ってくるならいい。だけどもし、勇利が今まさに予期せぬ事態に陥っていたら。異国の地で、言葉も分からずに助けを求めていたら……。
 ぞっとした。勇利に何かあったら。そう思うだけで、いてもたってもいられない心地になる。
 もう一度携帯を持ち直して勇利の番号をタップする。
 ――先ほどと同じ、機械的なアナウンス。
 すぐさま終了ボタンを押し、今度はヤコフに電話をかけてみる。
 四コール目の途中で、プツッとコール音が途切れた。
『どうしたヴィーチャ、こんな時間に』
「勇利がいなくなった」
『は?』
 いぶかしむヤコフに、手短に状況を説明する。
「勇利から何か聞いてない? どこかへ行くとか、誰かに会うとか……」
『お前が聞いとらんのに、ワシが聞いとるわけがないだろう』
「おかしいんだ。俺、何も聞いてない。勇利は何も言ってなかった。とにかく情報が欲しい。なんでもいいんだ。今すぐ探しにいかないと……」
『おい』
 ヤコフの声音が厳しくなる。
『お前がパニックになってどうする。生徒の姿が少し見えなくなっただけでそれか? しっかりしろ』
「……そうだね、ヤコフの言う通りだ」
 冷静さを欠いていた。大きく息を吸って吐き出す。
『よく考えろ。あいつの考えることなんぞ、お前が一番よく分かってるだろう』
「でも、本当に何も言わずに……」
 はっとした。
 そうだ、そうだった。勇利が行く場所なんて、そこしかない。
 どうして気がつかなかったんだろう!
「……リンクだ」
『ん?』
「ありがとうヤコフ! また連絡する!」
『おい、ヴィーチャ!』
 ヤコフの声を最後まで聞かずに、通話を終了する。ボタン操作する時間も惜しい。アドレス帳から、急いでスポーツクラブの固定電話の番号を呼び出す。
 俺は馬鹿だ。ヤコフの言う通り、よく考えれば……いや、考えるまでもなく、その場所を思いつくべきだった。
 勇利はここ最近悩んでいた。俺とのペアの曲……ラブリーテンダーが思うように合わせられなくて。不安を抑え込むために勇利は過度な練習をしたがったが、俺がそれを止めていた。きっとそれが限界に達したんだ。
 そう考えれば、つじつまが合う。俺が眠っている間に、何も言わずに出て行った理由も明白だ。俺に止められたくなかったから。
 コール音を聞きながら、時計を見る。今の時間なら、まだ片付けのためにスタッフが残っているはずだ。そうでなくとも、勇利が押しかけていれば必ず誰かがいるはず……。
 祈るような気持ちで待っていると、ふいにその音が途切れた。
『チムピオーン・スポーツクラブです』
 電話に出た女性に、手短に状況を説明する。俺とも勇利とも顔見知りのスタッフだったので、話はすぐに通じた。確認してみますね、という返答を貰い、保留の音楽を聴きながら待つ。
 しかし数分後、彼女が告げた言葉は俺の期待するものではなかった。
「『誰も来ていない』?」
 そんなはずはない。必ず勇利はそこにいるはずだ。念を押して確認してみたが、フィギュアスケートリンクにはもう誰もおらず、照明も落としているとのことだった。
「……ありがとう。もしこの後勇利が来たら、連絡してほしい」
 了承の返事をもらって、通話を終了する。
 リンクにいない?
 そんなはずはなかった。そこしかないと思った。行き違いになった? 可能性はある。でも、そうじゃない、と俺は何故だか確信した。根拠のない思い込みだ。でも、正しいような気がしてならない。
 勇利はリンクには向かっていない。
 俺はもう、勇利のことを理解していない。
 勇利の、うつむきがちな表情を思い出す。あの日以来、合わなくなった視線。繋がらなくなった心と心。
 もしかしたら勇利は、もう俺には何も言ってくれないのかもしれない。もしもそうだとしたら、俺にはもう、どうしようもない。このまま勇利は、俺を置いてどこかへ行ってしまうのかもしれない。俺の手の届かないところへ。俺の知らない場所へ。……勇利が本当に愛する人の元へ。
 途方もない脱力感に襲われて、そのままその場にへたりこむ。勇利を探さなきゃいけない。そう思うのに、怖いと思う自分がいる。
 勇利は、俺に探されたくないと思っているかもしれない。
 ネガティブだ。被害妄想だ。こんなの俺らしくない。何かがおかしい。勇利と一緒に暮らすようになってから、俺はどんどん弱くなっている。
 それとも、もとからこうだったんだろうか?
 ただ、自分の欠けた部分に気づいていなかっただけで。
 そう思った直後、ブー、という微かな音を立てて手の中の携帯が震えた。
 勇利!?
 慌てて画面を確認して、すぐに意気消沈する。表示された名前は、勇利ではなかった。通話ボタンを押して、耳に押し当てる。
『カツドンがいなくなったって?』
 着信の相手は、ユリオだった。自分から電話をかけてきたくせに、不本意だと言わんばかりの声音。
「なんで……?」
『ヤコフから聞いた。見つかったのか?』
「いや、まだだ。今から外に探しに行く」
『アテはあんのか』
「ないけど、行くしかないね。勇利がこの雨の中震えてたらかわいそうだし」
 強がりだ。さっきまでひとりで絶望してたくせに、こんなところで強がる。言葉とは裏腹に、声音に隠し切れない不安がにじんでいるような気がして、思わず自嘲する。
 ユリオが思いがけないことを言ったのは、そのときだった。
『花だ』
「え?」
『昼間、カツドンに花のことを聞かれた。この雨でも花は残ってるのか、って。俺は、全部散るんじゃねえのって答えた。カツドンが上の空になったのその後からだ。いなくなったのと関係あるか分からねえけど、お前なら……』
「待って、分からない。花ってどういうこと?」
『だから花だよ! そこら中に咲いてるだろうが!』
 続く言葉を聞いた瞬間、俺は携帯を取り落としそうになった。
『リラの花!』
 この街で、勇利の知っている場所は少ない。
 俺の家、リンク、近所のマーケット、マッカチンの散歩コース、よく寄り道するカフェ……。
 だからこそ不思議だったんだ。この街で、勇利が俺を置いてひとりで行く場所なんてリンクくらいしかない。そのリンクにいなかったら、どこにいるかなんて見当もつかない。そう思った。
 でも、もうひとつあったんだ。俺は確かに、勇利本人からそれを聞いていた。
 勇利がこの街に引っ越してきた最初の日。荷ほどきの息抜きに買い物に出かけて、俺たちは咲き誇るリラの花を見かけた。そこで俺は勇利に花の言い伝えを教えたんだ。花弁が五枚のリラの花を食べると願いが叶う、と。
 勇利はすぐに探した。でも見つからなくて、落ち込んだんだ。そのとき、俺たちはこんな会話をしたはずだ。
 ――簡単に見つからないからこそ、そういう言い伝えがあるんだろうしね。
 ――……今度また探しにこよう。
 そう。そうだった。勇利は、確かにそう言った。
 あの場所は――。
「……アレキサンダー・ガーデンだ」

   ◇

 街灯のおぼろげな光の中にその姿を認めた瞬間、俺の心は安堵に包まれた。
 勇利はそこにいた。アレキサンダー・ガーデンの柵の傍。俺が勇利に初めてリラの花を教えた場所で、勇利は両手で花をかき分けていた。
「勇利!」
 俺は駆け出した。風を受ける傘が煩わしくて放り投げる。濡れたってかまうものか。勇利が驚いた顔でこちらを見る。走りこんだ勢いのまま、かまわずその身体を抱きしめた。
「ヴィクトル!?」
 腕の中に納まる身体。
 勇利だ。ああ、確かに勇利だ。
 両手で背中と後頭部を支え、その存在を確かめる。
 よかった。勇利がいる。勇利が俺の腕の中にいる。本当によかった。
 傍には勇利の分であろう開いたままの傘が置いてあった。雨脚は、夕方より小ぶりになったとはいえ傘をささないですむほど弱くはない。いつからそうしていたのか、勇利の身体は頭からずぶぬれになっていた。
「な、なんでここに?」
「探したんだよ。起きたら勇利がいないから……電話も通じないし」
「あ……充電、切れてたかも」
 そんなことだろうと思った。予想通りの結果に苦笑する。
 よかった。勇利は俺を拒絶しているわけじゃなかった。安心感がじわじわと指先まで広がっていく。
 そうだ。そんなことあるわけないじゃないか。少し前の自分の思考が途端に馬鹿馬鹿しく思えてくる。あの時の自分は、やはりどうかしていた。勇利が俺を拒絶するなんて、あるわけない。
「心配したよ。無事でよかった」
「そんな……大げさだよ」
 勇利が笑う。その言い方に、少し苛立つ。
 大げさなんかじゃない。俺がどれだけ心配したか、勇利は全然分かっていない。……でも、ぐっと言葉を飲み込んで、身体を離した。
「とにかく、早く家に帰ろう。身体が冷え切ってる。お風呂を入れるよ。温かい紅茶も」
 冷たい手を引いて、その場を離れようとする。
 しかし、勇利は動かなかった。
「……勇利?」
 勇利は黙って首を横に振った。その目は、俺の顔を見ていない。わずかにうつむいて、俺と視線が合わないようにしている。
 俺の心に、暗い感情がじわりと広がる。それは絶望に似ている。勇利の眼鏡のレンズに雨粒が流れて滴るのを、しばらくぼんやりと見つめる。
「……どうして……?」
「やることがあるんだ。……ヴィクトルは、先に帰っていいよ」
「なんでそんなこと言うんだ。……このままじゃ風邪ひいちゃうよ。一緒に帰ろう」
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないよ。いつからこうしてるの? 身体が冷え切ってる。早く温まった方がいい」
「大丈夫だって。そんなに寒くないし」
「そういう問題じゃない」
「いいから、僕のことはほっといて……」
「ほっとけるわけないだろ!?」
 勇利の身体がビクリと震えた。俺もまた、自分の声の大きさに自分で驚く。
 しかし、一度あふれ出した言葉は止まらなかった。
「俺がどれだけ心配したと思ってるの!? 勇利は全然分かってない。何も、何ひとつ分かってない! 目が覚めたとき、俺がどれだけ驚いたか……勇利に何かあったんじゃないかと、どれだけ不安になったか、どれだけ心配したか! 今だってそうだ。そんな冷え切った身体で、まだ外にいるって? 傘もささずに? 雨に打たれたまま? 俺だけひとりで家に帰れって? どうしてそんなことが言える!? なんで、そんなこと……」
 言っているうちに、ひどく悲しい気持ちになってきた。俺が思っているほどに、勇利にとって俺は必要なものじゃないのかもしれない。いや、必要じゃないんだろう。だから平気でそんなことが言える。
「ほっといてくれなんて……なんで……」
 自分を必要としていない人に、必要としてくれと訴えるのはむなしい。
 俺の言っていることは、俺のわがままなんだろうか。俺が勇利を心配するのは、行き過ぎた感情なんだろうか。勇利はもう大人だ。自分の意思で自分の行動を決めることができる。俺の感情のためにそれを変えてくれというのは、ただのエゴにすぎないんじゃないだろうか。
 俺はただ、もっと俺を愛してくれと、駄々をこねているだけなんじゃないだろうか。
「……ごめん」
 絞り出すような声で、勇利が言う。
「でも、まだ帰れない」
「花が散ってしまうから?」
 沈黙が流れる。肯定ということだ。
「五枚の花弁の花を探してるんだろ? ユリオから聞いたよ。リラの花は来年も咲く。何もこんな日に探さなくてもいいじゃないか」
 勇利は黙って首を横に振る。
「……勇利、あれはただの言い伝えだよ。花を食べたからって本当に願いが叶うわけじゃない。単なる子供の遊びだ」
「……」
「こんな雨の日に、身体を冷やしてまで探す価値のあるものじゃない。いつか偶然見つけたときに思い出す程度のおまじないだ。何を願うつもりなのかは知らないけど、そんなものに縋るなんて馬鹿げてる」
 ピクリ、と勇利が反応する。くちびるが震える。
「……そんなものにでも、縋るしかないから」
 雨音にかき消されてしまいそうなほど、小さな声。そこには悲痛な響きがあった。痛切な、祈りのような声音。言外に、「ヴィクトルには分からなないよ」と、告げられたような気がして、俺はくちびるを噛んだ。
「勇利は、何を願っているの?」
 そんなにまでして。雨の夜に表に飛び出してまで。俺に何も告げずに出かけてまで。傘を放り出して夢中になって。
 一体、何をそんなに祈ることがあるんだ。
 そうまでして、何を叶えたいというんだ。
 雨が降り続いていた。細かい雨粒が俺と勇利の身体を、黒い鉄の柵を、リラの花を、冷たい街灯を、色の変わったアスファルトを、静かに濡らしている。
 勇利がゆっくりと顔を上げた。白い頬が、わずかに上気して赤くなっている。大きな目が、街灯の白い光を反射して、まるで濡れているように見える。視線は、音もなく俺の視線を捕らえた。久しぶりに真正面から見る深い色の瞳。その目が、言葉以上に俺に何かを訴えようとしている気がした。
「どうしても……愛してほしい人がいる」
 高いところから、一気に突き落とされたような気がした。
 ああ、それは。つまり、その言葉は。その目は、その感情は、その行動は、その祈りは、その心は。
 全部、俺のものではない。
 俺に向けられたものではない。
 全部、優子のため。
 眩暈がした。まるで、大きな金づちで頭を叩かれたみたいに。目を覚ませ、と言われたような気がした。思い知れ、と。身体から力という力が抜けていって、その場に座り込みたくなった。自分という存在が、今の瞬間すべて無価値で無意味なものになってしまったような気がした。
 ――愛されてないことが分かってるのに、『愛して』なんて言えない。
 だから勇利は、花に縋るしかないと思ったんだ。そうでもしなければ、優子への愛は届かないから。
 どうしても、優子に愛されたかったから。
 そう思った途端、俺の身体の中で何かがうごめいた。
 どろりと、粘性を持った濁った塊が腹の奥で質量を増す。まるで地面から溶岩が噴き出すように、醜い物体が一気に喉元までせりあがってくる。
「もう、諦めなよ」
「……え?」
「全部忘れた方がいい」
 冷たく、乾いた自分の声。それを言っているのは確かに自分のはずなのに、その響きには現実感がない。まるで、すぐそばにもうひとり別の自分が立っていて、そいつが勝手に言葉を発しているみたい。
 勇利は茫然と俺を見ている。俺の言葉が理解できないというような表情で。
 俺に重なったもうひとりの俺は、冷酷に言葉を紡ぐ。それが、どれだけひどい言葉かを知りながら。
「叶わない恋なんて無意味だ」
 勇利が目を瞠った。俺はじっとそれを見ている。
 ぽたり、と水滴が勇利の頬を伝った。明らかに雨とは違う、熱を感じる雫。
 勇利の大きな目から、見る間に水滴が盛り上がって、次々とこぼれていく。嗚咽するでも、嘆くでもなく、まるで自分が泣いていることにすら気づいていないかのように、勇利はただじっと俺の顔を見ている。
 茫然と、見つめている。
「そう……だよね。……うん、僕も……そう、思ってた」
 勇利の身体はかすかに震えていた。けれど、声音は場違いに明るい。下手な冗談を言っているみたい。それがかえって、ショックの大きさを物語っているようでもある。
「分かってた……こんなこと、意味がないって……」
 震えが大きくなる。
 俺は残酷なほど冷静に、じっとそれを見ている。勇利が傷ついていることを知りながら、手を差し伸べずにいる。
 だって勇利を傷つけているのは俺だ。他でもない、俺自身だ。
「分かって、た……」
 声が歪んだ。喉のところで、変な力が加わったように、いびつな響きを残して、音が途切れる。
「忘れたら」
 茫然としたまま、勇利が呟く。
「忘れたら、またちゃんとスケートできるようになる?」
 期待も失望もない。何の感情も織り込ませない、ただ純粋な疑問。
 それとこれとは関係ないよ、勇利。いやむしろ、誰かを愛することは勇利のスケート人生をより豊かにする。それが例え叶わない恋であったとしても、誰かを想う気持ちが無意味になることなんてないよ。その気持ちは勇利の生活を色あざやかに彩って、生きる意味すら教えてくれる。だから、忘れる必要なんてないんだ。いつか自然と勇利の気持ちが落ち着くまで、大事にとっておけばいいんだよ。
 でも、俺の口から出てきた言葉は、まったく真逆だった。
「なるよ」
 それは宣告だ。
 その恋を捨てろ、という宣告。
 それを言ったらどうなるか、全部分かってて口にした。スケートのためにと言ったら、勇利が従うしかないことを知っていた。
 勇利の表情がゆっくりと変化した。茫然と、ただ驚いているようだった顔が悲痛な形に歪む。眉がひそめられ、頬が痙攣した。大きな瞳からはとめどなく涙が流れ、まばたきをする度に大きな雫になってこぼれおちた。ひきつけを起こしたように、喉から変な声が漏れる。
「……ひっ……う……うあ、ああ……ひっ……」
 どうにか押さえようとしているのか、勇利が手の甲を口元に当てる。でも、嗚咽は止まらない。それどころか、ますます激しくなって誰もいない夜の街に響く。
「う、うああ……ああああ……うああああ…………」
 悲鳴にも似たその声に耳を澄ませる。
 後悔と罪悪感に、息が詰まりそうになりながら。

   ◇

 勇利がいなくなる、という可能性を初めて認識した。
 それまでは、可能性すら思いつくことはなかった。勇利が俺の元を離れて、どこかへ行ってしまうなんて、そんなことありえるわけがないと思っていた。
 でも、気づいたんだ。勇利と俺の間には何もない。血の繋がりも、法的な繋がりも、俺たちを客観的に結び付けるものは何一つ存在しない。
 ただコーチと生徒というだけ。ただ同じ家に暮らしているというだけ。ただそれだけの、家族ですらない他人。
 今までそれを不安に思ったことなんてなかった。他にどんな繋がりがなくても、俺たちは心と心が通じ合ってる。誰にも見えないかもしれない、でも俺たちにははっきり見えている。血の繋がりより、法的な契約より、何よりも確かなものとして。一緒にスケートをすれば、考えていることが手に取るように分かったし、一緒に踊れば、まったく同じ感情を共有することができた。それ以上に必要なものなんて、ないと思っていた。
 泣き崩れた勇利をどうにか支えて家に帰るまでの間、ずっと考えていた。
 心と心が通じ合っていると思っていた。でも今は、きっと勇利はそう思っていない。スケートをしてもうまく息が合わないし、俺よりももっと大事な人への思いをつのらせている。
 なんて危うい繋がりだったんだろう。どうして、あんなにも盲目的に信じられたんだろう。
 もしも勇利が俺から離れたいと願ったら、いつでもそうできる。もしも俺じゃなく優子と一緒に居たいと願ったら、いつでもそうできる。ロシアにいたくないと思ったら。長谷津に帰りたいと思ったら。俺という存在が、不必要だと思ったら。
 いつだって、勇利は俺の前からいなくなれるんだ。今日、俺が目覚めたときのように。
 それはたまらなく恐ろしい考えだった。
 勇利を傷つけた今だからこそ、なおさら。


 勇利が泣き止むことはなかった。
 雨に打たれて泣いて、家に帰って泣いて、お風呂に入って泣いた。お茶を淹れても泣いて、歯を磨いても泣いて、心配したマッカチンがなぐさめるように寄り添っても泣いた。
 まるで涙を止めておく器官が丸ごと壊れてしまったみたいだった。それはある意味で正しい。勇利の心の一部は、文字通り壊れてしまったんだろう。壊したのは、俺だ。
「勇利」
 耐えきれなくて、その言葉を口にした。
「ごめん」
 それが何の意味もないことは、口に出す前から分かっていた。
 真実は見る方向によって姿を変える。「恋を忘れたらスケートができるようになる」……そんな馬鹿げた言葉だって、ある方向から見たら真実のように見えなくもない。そして、一度真実の姿を見てしまった人を、「それは真実ではないんだ」と説得するのはたやすいことではない。例えその『見る方向』が、誰かによって恣意的に操作されたものであったとしても。例え説得する人が、他でもない偏った真実を示した当人であったとしても。
 案の定、俺の言葉で勇利が泣き止むことはなかった。
 勇利はかすかにほほ笑んで、ただ静かに首を横に振った。それだけだった。
 いつものように同じベッドに入って、電気を消してシーツをかぶった。でも、眠れる気はしなかった。暗闇の中で、勇利の息遣いが聞こえてきた。勇利も眠れないようだった。交わす言葉もなくて、それは夜というよりも、長い長い沈黙のようだった。
 そう、長い沈黙だった。
 明け方に少しだけ眠った。あまり眠った気はしなかった。いつの間にか目を閉じて、そのまま目を開けるのを忘れてしまっただけのように思う。
 その瞬間、ぞわっと全身の毛が逆立った。
 頭の中に警鐘が鳴り響き、焦燥感が全身を包む。冷たい汗が一気に噴き出す。
 いない!
 勇利がいない!
「勇利!」
 叫びながら飛び起きた。
 でも、それは俺の勘違いだった。勇利はそこにいた。
 俺よりも一足早く目が覚めていたんだろう。勇利は上体を起こしていた。シーツの上で、俺に背を向けて、朝の光のこぼれるカーテンをじっと見つめていた。
 何かが違う、と、俺は思った。何かが違う。何も違わないのに、でも決定的に何かが違う。
「勇利……?」
 ゆっくりと、勇利がこっちを振り向く。
 ああ、違う。やっぱり、違う。
 笑った顔が、昨日と違う。それは、泣き腫らした目のせいじゃない。いつも明るくおはようと返してくれる声がないせいじゃない。
 それは、何かを失った人の笑い方。
 大切なものを、諦めた人の。
 涙は止まっていた。カーテンの隙間から零れる光が、頬に残った涙の後をわずかに輝かせた。
 いつもの声音で、勇利が言う。
「もう、全部忘れた」


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