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僕たちは欠けている

#3

 音楽が聞こえる。
 なつかしいメロディー。ぽろん、ぽろんと響くギターの音色。かすれた歌声。
 ノイズ交じりのラブミーテンダー。
 リビングのラジオは音楽局の周波数を捉えている。シャキ、シャキ、とかすかな音を立てる鋏。タイルの上に散らばる銀髪が、春の日差しを受けてきらきらと光っている。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
「何してるの?」って言いたそうな顔で、首を傾げるマッカチン。
 甘い匂い。リラの花の匂い。よく晴れた日曜日の匂い。希望の匂い。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
 あの時、俺は何を思っていたんだっけ?
 何に希望を感じていたんだっけ?
 鏡の中で、髪の短くなった若い自分が視線を投げかける。ギザギザの不格好な髪形。笑った目。弧を描くくちびる。
 音もなく、その口元が動く。
「××××××××××」
 声は聞こえない。代わりに、ずっと音楽が聞こえている。甘く、切なく、祈るような歌声。
 ノイズ交じりのラブミーテンダー。

   ◇

「俺ってコーチ失格なのかなあ」
 ぎょっとした顔でヤコフが俺を見た。いつも重く垂れさがっている瞼が見開かれて、ただでさえ怖い顔が二割増しくらいで凄みを増している。「ヤコフ顔怖いよ」と言ってみたら、すぐさま「やかましい」と一蹴された。
「どうした、急に殊勝なことを言いおって。だからコーチと選手の掛け持ちなどやめておけと言ったんだ」
「違うよ。そんなのは大した問題じゃない」
 リンクサイドの手すりにもたれて、はあ、とため息をつく。
 競技者として自分の練習を見てもらって、ついでにシーズンが始まってからの活動方針について確認していたところだった。
 今シーズンから、俺は競技者でありながら勇利のコーチを務めることになる。それにはヤコフや他のスタッフの協力が不可欠だ。俺がどうしても勇利の傍にいてあげられないときは、他の誰かにサポートをお願いする必要がある。もう何度となくそのためのミーティングを開いて、スタッフ全員とヤコフ、勇利自身との話し合いを重ねてきた。
 そうしているうちに、最近は勇利の話をよくヤコフとするようになった。俺が見てあげられない場合に限らず、もっと全般的な話。例えば指導方法や、モチベーションの上げ方、コーチとしての心構えまで。これだけ長くヤコフの下にいて、まだ教わることがこんなにあるなんて思ってもみなかった。
 俺が珍しく弱音を吐いたからか、ヤコフはまるで珍獣でも見るような目をしている。
「何かあったのか」
「……勇利がラブミーテンダーを滑ってると、嫌な気持ちになるんだ」
 俺はリンクの反対側に目をやった。つられてヤコフもそっちに顔を向ける。その先には、自主練中の勇利が集中した様子でステップの確認をしている。俺たちの視線には気づいていないようだ。ときどき自分自身に問いかけるように首を傾げながら、同じところを繰り返し滑っている。
 曲はかかっていなかったが、それがどのプログラムなのか俺にはすぐ分かった。当然だ。だって俺が振り付けしたんだから。
 アレンジ版のラブミーテンダー。
 勇利がラバーズオンアイスのために選んだペアの曲。俺たちふたりのための曲。
「気に入らんことでもあるのか」
「そういうわけじゃないんだけど……」
 はあ、と俺はまた息を吐きだす。
 胸の中にじわりと滲んだ嫌な気持ちを追い払うために、無理矢理視線を勇利から引きはがした。
「勇利が大事な人のためにあれを踊っているんだと思うと、なんだかモヤモヤするんだ。……おかしいとは思ってるよ。勇利が誰を愛そうと自由だ。むしろ、そういう経験をしないと表現の幅は広がらない。だから、コーチとしては歓迎しなきゃいけないと思っているんだけど……」
 でも俺は、勇利が愛するその人のことを、憎いと思ってしまったんだ。
 ……その言葉は、口に出せなかった。だってあまりにも醜い。
 優子に何も悪いところはないことは分かっている。彼女はただ勇利の幼馴染だというだけで、例え勇利が特別な感情を抱いていたとしても、それは勇利の勝手であり彼女自身には無関係な話だ。まして、勇利のコーチでしかない俺が口を出せる問題じゃない。憎むだなんて、お門違いも甚だしい。
 頭では分かっているのに、心が黒く染まっていくのを止められない。考えるだけで、暗い気持ちが身体の奥底から湧き上がってくる。
 正直、俺は戸惑っている。こんな感情を抱いたのは生まれて初めてだからだ。あまりにも醜悪で、身勝手で、非合理的な感情。こんなもの、ヤコフにだって見せられない。
 ため息をつく。考えた末に出てきた言葉は、俺の中にある感情をずいぶんマイルドにしたものだった。
「……自分のことがよく分からない。複雑な気持ちだ」
 ふっ、と鼻で笑う音がした。
 見ると、ヤコフが片方の口角を持ち上げて皮肉げに笑っている。隠す気もないらしい。俺は思わず口をとがらせる。
「なんで笑うの?」
「いや、お前も随分人間らしくなったなと思ってな」
 ふいに、ぬっと大きな手が伸びてきて、俺の頭をぐしゃぐしゃとかきまぜた。そんなことをされるのは、ジュニアのころ以来だ。……いや、ノービスのころだったかもしれない。少なくともヤコフの身長を追い抜いてからは、そんなことをされた覚えはない。
 しばらく、おとなしくされるがままになっていて、その末に俺は思ったことを言った。
「ヤコフ、背伸び大変じゃない? かがもうか?」
「……ちょっとはかわいげが出たかと思ったが、気のせいだったな」
「かわいいと思ったの?」
「思っとらんわ」
 大きな手が離れていった。
 不思議だ。胸の中が軽くなった気がする。詳しいことは何も言ってないのに、俺の中にある汚い感情を、否定せずに受け入れてもらったような気持ち。乱れた髪を整えながら、口元が自然と緩む。
 ヤコフのこういうところがすごいと思う。俺も勇利にとって、こういう存在になれたらいい。
「ありがとう、ヤコフ」
「ワシは何もしとらんぞ」
「でも『人間らしくなった』ってどういう意味? 俺人間じゃなかったの?」
「お前は……」
 そのときだった、リンクの向こうから、俺を呼ぶ勇利の声がした。
「ヴィクトルー!」
 顔を向けると、いつの間にか休憩していたらしい勇利がリンクサイドの柵にもたれている。片手を上げて俺に呼びかける彼の横で、もう一人、背の高い人物が、こっちに手を振っているのが見えた。
 うちの選手じゃない。トレーニングウェアではなく、ジャケットを着ている。短い金髪と、鍛えられた身体、すらりと伸びた脚……。
 気づいた瞬間、俺は思わず叫んでいた。
「クリス!?」
 彼の口が、「ハアイ」と動くのが見えた。

   ◇

「来るんだったら事前に教えてくれたらよかったのに」
「ごめんごめん。寄れるかどうかはっきりしなかったから」
 ワインを傾けながら、クリスが肩をすくめる。
 俺と勇利、クリスはディナーを一緒に取ることにして、クラブ近くのレストランを訪れていた。気取らないロシア料理店の店内は、地元の味を愛する常連客であふれている。
 突然チムピオーンに顔を出したクリスは、今回はスケート関係なく個人的な観光でロシアにやってきたのだそうだ。はっきりとは言わないが、たぶん恋人と一緒なんだろう。同行している彼も一緒に食事に誘ったが、今夜は仕事関係の用事があるとのことだった。
「しばらくいるの?」
「あちこち回って、白夜祭を見てから帰ろうと思ってるよ」
「それならまた時間のあるときに声かけてよ。ご飯でもいいし、観光案内でもいいし」
「それはいいね」
 クリスがそこでくすっと笑って、俺と勇利に目配せをする。
「でも、ふたりの邪魔をしちゃうのも悪いし」
「僕たち? 今はそんなに忙しくないよ?」
 ね、ヴィクトル、と、俺の隣に座った勇利が同意を求めてくる。でも多分クリスが言ってるのはそういう意味じゃない。
 あいまいに頷くと、勇利は首を傾げて、クリスは苦笑した。
「それにしても、本当に勇利がいるとはね」
「当たり前だろ? 勇利は俺の生徒なんだから」
「ロシアにまで連れてくるなんて、悪い男だ。そういえば、一緒に暮らしてるんだっけ?」
「それは……ヴィクトルがその方がいいって言うから」
 クリスの言葉に、勇利が言い訳がましく答える。クリスは「へえ」とだけ言って、思わせぶりに俺の方に目を向けた。俺は肩をすくめてみせる。
「それどころかベッドも一緒だよ」
「ちょっ、ヴィクトル!?」
「もうそこまで進んでるの?」
「まだベッド買ってないだけだから!!」
「ベッドの上の勇利はとても淫らで激しいよ……」
「寝相悪くてごめんね!?」
「妬けちゃうな。今度俺にも見せてよ」
「寝てるところを!?」
「OK、いつか三人で一緒にしよう」
「川の字!?」
 カワノジ、というのがよく分からなかったけれど、今夜は勇利の突っ込みも冴えわたっている。全員でくすくすと笑う。
 クリスとふたりがかりで勇利をからかうのはとても楽しくて、お酒がよく進む。クリスのリクエストで注文したロシア料理もとてもおいしく、あっというまにお皿とグラスが空になっていく。
 しばらくお互いの近況や、他のスケート選手の話で盛り上がった後、ふとクリスの目線が俺たちの手元で止まった。指輪に目を止めたらしい。
「さっき勇利から聞いたんだけど、またペアで滑るんだって?」
 心臓が、嫌な音を立てる。
 一瞬走った動揺には、気づかれなかっただろうか? ごまかすために、赤ワインの入ったグラスをゆっくりと傾けてから答える。
「アイスショー用にね」
「僕が曲を選んでヴィクトルが振り付けしたんだ。もう、すっごいんだから!」
 お酒の入った勇利は饒舌だ。かなり量をセーブしているからそんなに酔うはずはないのに、声が明るいし口調も楽しげだ。
 その話はしたくない。
 俺の内心とは裏腹に、ふたりの会話は終わる様子を見せない。むしろますます盛り上がっていく。
「曲は何を使うの?」
「『ラブミーテンダー』! アレンジ版だけど」
「いい選曲だね。君たちにぴったりだ」
「でしょ? ヴィクトルの振り付けがまたすごいんだよ!」
「どんな風に?」
 勇利が上機嫌で腕を振り回し始める。
「こうしてねー……こうしてね、こうなって……こう!」
「あはは、全然分かんない」
「えー、分かってよ!」
「完成を楽しみにしてるよ。あーあ、またふたりの愛を見せつけられることになるのか」
 違う。
 喉の奥が、きゅっと締まって、急に息苦しさを感じる。アルコールが変な風に回っているのかもしれない。
 違うんだ。
 違うんだよ、クリス。
 勇利が愛を向けてるのは、俺じゃない。
 頭がクラクラする。自分の思考に、自分で傷ついている。それなのに、考えることをやめられない。
 勇利が愛しているのは、俺じゃなくて……。
 そのとき、すぐ近くで音楽が鳴り響いた。スマートフォンのデフォルトの着信音だ。思わず音の方向を見る。クリスも同じように顔を勇利に向けていた。
 勇利は慌てた様子でポケットからスマートフォンを取り出す。そして画面を確認すると軽く目を瞠った。
「お母さんからだ。ちょっと話してくるね」
 明るい声でそう言って、勇利は席を外してしまう。
 長谷津からの電話。
 たったそれだけのことに、俺の心はまた動揺する。嫌な気持ちがじわりと胸の中に滲む。
 なぜ?
 自分で自分に問いかける。
 なぜ? ……それは、長谷津に優子がいるからだ。その電話の向こうに、寛子だけじゃなく優子がいるかもしれないと思っているからだ。
 黒い気持ちがじわじわと心の中に広がっていく。……ああ、嫌だ。嫌な気分だ。頭の中で、勇利が電話をしている姿を思い浮かべる。勇利は寛子からだと言ったはずなのに、想像の中で電話の相手は勝手に優子にすり替わっている。勇利は笑顔だ。かすかに頬を赤らめて、大きな目をきらきらと輝かせて、弾んだ声で返事をする。
 ……嫌な、気分だ。
 本当は勇利も、ロシアに来るよりも日本にいたかったのかもしれない。……馬鹿馬鹿しい。勇利はそんなこと一言も言ってない。……でも、長谷津からの電話にあんなにうれしそうに出ていた。もちろん、うれしいに決まってる。あそこには勇利を愛する、そして、勇利が愛する人たちがたくさんいる。それに――……。
 優子だって、いる。
 勇利の、本当に愛する人がいる。
「ずいぶん酔ってるね」
 はっとして顔を上げると、クリスがワインのボトルを傾けていた。言葉とは裏腹に、勝手に俺のグラスに追加のワインを注ぐ。
「酔ってないよ。今日はそんなに飲んでないし」
「そう? どう見ても様子がおかしかったけど」
 自分の表情が固まったのが分かった。クリスは、飄々とした表情で自分のグラスにもワインを注いで、その香りに感嘆している。
 どうごまかそうか一瞬考えて、すぐに思い直す。この男の前で変に取り繕っても無駄だ。
 いつの間にか詰めていた息を、長いため息にして吐き出す。
「……俺、おかしかった?」
「かなりね。勇利はまったく気づいてないみたいだけど」
「はは……まいったな」
 気まずくて笑うと、クリスも人の好さそうな笑みを返してくれる。
「悩みを相談するなら今のうちだよ」
 ヴィクトルの悩みに興味あるし、と、よく分からない理由を付け足される。今のうち、というのは、勇利が席を外していることを言っているんだろう。店の外で電話をする勇利の姿が窓から見えたが、まだまだかかりそうだった。
 クリスは無理に聞き出そうとするわけでもなく、かといって別の話題を始めるでもなく、とりとめもなく料理をつつき、ワインを味わっている。
 俺はしばらく考えて、クリスに甘えることにした。それほど自分自身に戸惑っていたということだ。ヤコフ以外の人に悩みを相談するなんて、人生においてこれが初めてだった。スケートのことに関してコーチと話をするならまだしも、他のことで誰かを頼ろうと思ったことなんて今まで一度もない。そうしなければいけない状況になることなんてなかったからだ。自分の感情が制御できなくて困るなんてこと、思春期のときだってなかった。
 勇利と出会ってから、思いもよらないことばかり起こる。
「……嫉妬、してるんだと思う」
 クリスが片眉を持ち上げる。いたたまれなくて、視線を手元に落とす。意味もなく右手の指輪をくるくると回す。少し前まで……正確には、勇利から『離れずにそばにいて』は優子に向かって滑っていたんだと聞かされるまで、俺にとってはその指輪がすべてだった。過剰な表現じゃない。本当にそれは、俺にとってのすべてだったんだ。
 俺が手に入れたLのすべて。
 それだけを信じていれば何もかも幸福だった。心からそう思っていたんだ。
 強い光が濃い影を作るように、その幸福が別の醜い感情を生み出すだなんて思ってもみなかった。
「多分、嫉妬なんだと思う。……こんなの初めてで、自分でもよく分からないけど」
「誰に嫉妬してるの?」
「……勇利の好きな人」
「それってヴィクトルじゃないの?」
 そうだよね。俺もそう思ってた。恋愛という意味ではなくて、もっと大きいくくりの愛。恋愛だろうと、そうでなかろうと、勇利の中で愛という名の付く感情の一番は、ずっと俺だと思っていたんだ。
 でも、違った。
「……日本にいる、幼馴染の女の子だよ。もう彼女は結婚してるから、勇利とどうかなるわけじゃないけど」
 だからなんだっていうんだ? 言いながら、自分に辟易する。仮に「どうかなる」として、それが何なんだ?
「なんでその子が好きな人だって分かるの?」
「勇利が言ってた」
「なるほどね。それで、ヴィクトルはその子に嫉妬してる、と」
「……多分」
「勇利が自分よりその子のことが好きだから?」
「そういうことなんだろうね」
 苦笑する。
 もちろん、勇利は俺のことを愛してくれていると思う。それを疑うつもりはない。でも俺に向けるのと別の種類の愛が、同じように勇利の中には存在していたんだ。そしてその愛の一番は、俺ではなかった。
 ぐ、と指輪に力を籠める。傲慢だ。誰かにとっての一番が、どんな面においても常に自分でないと気が済まないなんて、とても身勝手で幼い感情だ。こんなことを思うのはおかしい。そんな風に思いたいわけじゃない。そんな感情を向けたいわけじゃない。
 なのに……。
「止められないんだ。自分が自分じゃなくなる。……心の中が、どんどん濁っていくように感じるんだ」
 クリスは黙っている。沈黙が流れる。店内の喧騒が、薄いベールのようになって俺たちを包み込む。人々の声に織り込まれるように、ピアノアレンジされたノーウェジアン・ウッドが流れていて、心底ほっとする。もし偶然ラブミーテンダーが流れていたら、きっとまた暗い感情が湧き出してきて、止められなくなっていただろう。
 ギッと音を立てて、クリスが木製の椅子の背もたれに体重をかけた。呆れているんだろうな。そうに決まってる。俺だって俺自身に呆れかえっているくらいなんだから。
 でもそんな、俺にしては後ろ向きな考えは、クリスの明るい声ですっかり吹き飛んでしまった。
「すいませんお姉さーん!」
 ぎょっとして顔を上げると、クリスは片手で掲げたワインボトルをゆらゆらと揺らしていた。カウンターにいる女性スタッフが笑顔で俺たちの席にやってくる。
「これおいしいね。もう一本もらえる?」
 クリスが満面の笑顔で言う。さらにウインクまでつけると、まだ年若い女性スタッフが照れくさそうにはにかんだ。ワインのラベルを確認してから、カウンターへと戻っていく。
 クリスはグラスをくるりと回して、残ったワインを回転させる。納得したようにひとりでうんうんと頷く。
「安いのにいいワインだね。買って帰りたい」
「……クリス」
「料理もおいしい。今度彼も連れてこようかな」
「クリス」
「やっぱりいいレストランは地元の人に聞くのが一番……」
「クリス!」
 ようやくクリスがこっちを向く。その顔は、ニヤニヤっていう擬音を付けたくなるくらい笑っている。
 完全に面白がっている。思わず眉間に力が入った。
「人の悩みを笑って楽しい?」
「ごめんごめん。笑うつもりはないよ。ただちょっとほほえましくて……」
「クリス」
 それを笑ってるって言うんだ。非難を込めた目で見ると、クリスがまた「ごめんごめん」と繰り返した。
「いい男になったね、ヴィクトル」
「何それ。どういうこと?」
「人間らしくなったってこと。俺は、今のヴィクトルの方が好きだよ」
 今の方がいい? こんな醜い感情を抱えている方がいいって?
 俺はごめんだ。
「気に入らない?」
「当然だね。自分の不具合を見ている気分だ。こんなに未熟な人格をしてるとは思わなかった」
「それが人間味だよ」
「それヤコフにも言われたよ。なんで俺の話を聞いてそういう結論になるのかさっぱり分からない」
 クリスがふふふ、と笑う。俺が知らない何かを分かっているような笑みだ。なんだかささくれだった気持ちになって、つい非難めいた口調になってしまう。
「俺は今までだってずっと人間だったつもりだけど」
「でも、昔のヴィクトルはそういう隙みたいなものが少しもなかったよ。俺が初めて君に会った頃なんて、とても同じ人間とは思えなかった」
「じゃあ何だったの?」
「うーん……アンドロギュノス?」
「アンドロギュノス」
 聞きなれない言葉だったが、記憶の一部がくすぐられるような気がした。崩れてしまわないように、丁寧に掘り起こす。
「プラトン、だっけ?」
「そう、プラトンの『饗宴』。その中でこう言われているんだ。……人間は、昔はアンドロギュノスという生き物だった。しかし神ゼウスによってふたつに分けられて、アンドロギュノスは男と男、女と女、男と女になった。それが今の人間である、と」
 ベターハーフ、だ。
 運命の半身。魂の片割れ。ナイフで半分に割ったオレンジのもう一方。
「昔のヴィクトルは分けられる前のアンドロギュノスみたいだった。何もかも持っていて、欠点なんてなくて、まるで神様の造形物みたいだった。……だけどね、いつからか君は変わったよ」
 頬杖をついて、クリスが俺の顔を覗き込む。笑っているが、嫌な笑い方じゃない。新しい発見を、しげしげと観察するような目。
「俺からのアドバイス。勇利に全部話せばいいと思うよ。包み隠さず、全部。ヴィクトルが感じたこと、思ったこと、してほしいこと……なにもかも。そしたらみんな解決する。魔法みたいにね」
「……そんなこと、できるわけない」
「どうして?」
「不完全な自分を晒したい人間なんていないだろ?」
 クリスがくすりと笑う。
「欠けているものほど、愛おしくなるものだよ」
 そのとき、気配がして後ろを振り向いた。いつの間にか店内に戻ってきた勇利が、スマートフォンをポケットにしまいながらこっちにやってくる。
「ごめん、遅くなって」
「何かあったの?」
 何気なく聞いた。……嘘だ。『何気なく』、なんかじゃない。本当は電話の内容が死ぬほど気になっていた。誰と、何の話をしたのか。そこに優子はいたのか。
「たいしたことじゃないんだけど……」
 そこで勇利は言葉を切って、窺うように俺の顔を見た。
「ねえ、近いうちに一度長谷津に帰ってもいい?」
 ざわり、と、うなじが逆立った。
 まただ。また、嫌な気持ちになる。心が黒く染まっていく。
「……どうして?」
「ちょっと顔見せなきゃいけなくて。ついでに日本から持ってきたいものもあるし」
「……」
 なんでもないことだ。一時的に少し帰省するだけ。よくある話だ。本格的にシーズンが始まったら日本に帰る時間なんてなくなる。だから今のうちに用事をすませておくのは正しい。
 それなのに、止まらない。
 心の中が濁っていくのを、止められない。
 頭の中に、長谷津の風景がよみがえる。そういえば、温泉オンアイスのとき、勇利とユリオがトレーニングしている傍にはいつも優子がいた。当時は何も思わなかったはずの光景に、何か別の意味があるような気がしてきてしまう。
 そのとき勇利はどんな顔をしていた? 
 俺といるより幸福そうじゃなかった?
 おかしい。こんなことを思うこと自体おかしい。おかしいのに、止められない。
 止められない。
「勇利がいいと思うなら、いいんじゃない」
 勇利がむっと眉を顰める。
「なにその言い方。ダメならダメって言ってよ」
「ダメなんて言ってないだろ。勇利が判断すればって言ってるだけだ」
「全然そういう風に聞こえないけど。ていうかコーチなのになんでそんな投げやりなの?」
「投げやり? 勇利に言われたくないね。この間ロシアに来たばかりだっていうのにもう日本に帰るの?」
「やっぱりダメだと思ってるんじゃん!」
「そうは言ってない」
「言ってる!」
 止まらない。どうしても、止められない。
 行ってほしくない。俺よりも大事な人を大事にしないでほしい。俺を置いていかないでほしい。
 それだけなのに、口からは全然別の言葉が溢れだしていく。
「勇利にはもっと覚悟があると思ってた」
「なにそれ? ちょっと帰るだけで覚悟がないことになるの?」
「そんな調子で今後大丈夫かなって思っただけだよ」
 ああ、だめだ。止めなきゃだめだ。勇利の顔が紅潮している。怒りのためだ。握った拳が震えている気がする。俺が悪い。謝らなきゃ。勇利は悪くない。
 胸が、苦しい。
「はーい、ストーップ!」
 俺と勇利の間に、長い腕がにゅっと伸びて割り込んできた。そのまま二人の距離を広げるように大きく開く。顔を上げると、クリスが諫めるように俺と勇利の顔を交互に覗き込んだ。
「痴話げんかはお酒がまずくなるから後にしてくれる?」
「……ごめん」
 俺ではなく、クリスに対して謝りながら、勇利が椅子に座りなおす。
 途方にくれてクリスを見ると、クリスは俺だけに分かるようにため息をついて「あーあ」という顔をした。
 やってしまった。

   ◇

「じゃあ、こっちにいるうちにまた声をかけるよ」
「うん、ありがとうクリス」
「こちらこそ。ふたりとも、仲よくね」
 かけられる言葉がむなしい。
 クリスが泊っているホテルの前で俺たちは別れた。オレンジ色のあたたかな光の灯るロビーに、見慣れた背中が消えていく。
 ぴゅう、と夜風が吹き抜けて、街路樹がざわざわと不穏な音を立てた。沈黙がおりる。
「帰ろうか」
「……」
 勇利は無言で歩き出した。その後を慌てて追う。
 この時期のサンクトペテルブルクにはなかなか夜が訪れない。今もだいぶん薄暗くはなっているが、上空に目を向けると西の方に太陽の残光が見える。人々は終わらない一日を謳歌して、遅い時間になってもバーで友人たちとお酒を飲んだり、恋人と夜の街を散歩したりする。
 幸福そうな人々の中にあって、俺と勇利だけが不幸の底にいるような気がした。最低な気分。向けられたその背中が、俺という存在をかたくなに拒絶しているように見える。
「勇利……」
 声をかけてみる。返事はない。歩く速度がわずかに速くなる。
「ゆう……」
「謝らないから」
 振り向きもせず、勇利が言う。一歩も譲るつもりはない、というような、強張った声音。
「僕は悪くない。なんであんな言い方されなきゃいけないのか分かんない」
 それは、俺の醜い心のせいだよ。
 勇利は悪くない。もちろん、優子だって長谷津のみんなだって悪くない。悪いのは俺だ。俺の心が不完全なせいだ。
 でも、そんなこと言えない。
 勇利の大事な人を、憎いと思っただなんて言えない。そんなみっともない姿見せられない。
 そんなはずないんだ。俺は、そんな人間じゃなかったはずなんだ。おかしいんだよ。勇利のことになると、なんだか全然、うまくいかないんだ。
「いくらヴィクトルでも、許せない」
 勇利の歩調が速くなる。俺を置いていこうとするみたいに。
 苦しい。待って。置いていかないで。
「覚悟が、ないなんて……」
 待ってよ、勇利。勇利、勇利、勇利。
 待って!
 ……ということを、考えすぎていたのだと思う。そして、勇利の背中だけを見すぎていた。敗因はそれしかない。俺が気づいたのは、もうすべてが終わった後だった。
 つまり、ゴンッ! と鈍い音がして、視界に火花が散った、その後ということだ。一瞬視界が明滅して、あまりの衝撃に俺は思わずその場にうずくまった。うずくまってようやく、自分が道路標識の棒にぶつかったことを知った。正面から、盛大に。
 それはもう、鐘が響いたようなすごい音だった。どれくらいすごいかというと、道行く人たちが一人残らず俺の方に顔を向けたくらい。驚きのあまり開いた口元に手をやるくらい。そして、先に行こうとしていた勇利が、ぎょっとして振り向くぐらい。
 それぐらい、盛大な音だった。そして同時に、壮絶な痛みだった。
「なっ……!」
 勇利が慌ててかけよってくる。まだゴーンという音の余韻が残っている。
「なんで!?」
 俺が聞きたい。
 衝撃のせいか視界がぶれる。ぶれる、と思っていたら、よく見るとぶれていたのは視界ではなくぶち当たった標識だけだった。俺のオデコと挨拶した衝撃で、灰色のパイプがビリビリと震えている。どれだけすごい勢いでぶつかったんだろう? タイミングがまずかった。ちょうど、勇利を追いかけようと思って走りかけたところだったから。
「大丈夫!?」
「い、痛い……」
「見せて!」
 勇利は額を押さえていた俺の手をどかすと、しげしげとそこを眺めた。そして、気遣うようにそっと指を這わせる。
「血は出てない。でも赤くなってる。腫れちゃうかも……」
 座り込んだまま勇利の顔を見上げる。街灯の光が背後から差し込んで、勇利の輪郭を白く浮かび上がらせる。
 大きな目。それが、心から心配そうに俺の顔を覗き込んでいる。
 ズキズキする。ぶつけた額が熱い。それは、単純に腫れて熱を持っているのか、それとも勇利に触られているせいなのか、俺には判断ができなかった。
 でもただ、とにかく、途方もなくドキドキしたことだけは間違いない。まるで、心臓が居場所をなくして身体中を駆け巡っているみたいに。
 勇利がほんの少し首を傾ける。記憶より長くなった前髪が、目元に影を作る。
 ドキドキする。
「大丈夫? 痛い?」
 ドキドキ、するんだ。
「ごめん」
 言葉は、自然とこぼれた。まるでコップにたまった水が許容量を超えた瞬間みたいだった。
「……へっ?」
「さっきは変なこと言って、ごめん。覚悟がないなんて、そんなこと思ってない。勇利に当たったんだ。勇利が日本に帰っちゃうのが寂しくて、イライラしてた。あんな言い方するつもりはなかった。ごめん」
 勢いに乗せて、一息に言った。頭の中にはクリスの言葉が呪文みたいにぐるぐると回っていた。
 ――勇利に全部話せばいいと思うよ。包み隠さず、全部。
 包み隠さず?
 全部?
 そうしたら、本当に何もかもうまくいくんだろうか。俺の中にある、このどうしようもない感情は、どこかに行きつくんだろうか。美しい絵画に落ちたインクの染みは消えるのだろうか。醜い心は、また元の姿に戻れるんだろうか。
 分からない。でも今は、その言葉にすがるしかない。格好悪い。自分が情けなくなるくらいだけど、他にどうすることもできない。だって、こんなこと初めてなんだ。
「……真利姉ちゃんが、紹介したい人がいるんだって」
 ふいに、勇利が言った。
 何の話が始まったのか分からない。表情を読もうと思っても、ちょうど眼鏡が光を反射していて、よく見えない。
「多分、結婚するって意味だと思う。びっくりするよね? 真利姉ちゃん、昔から付き合ってる人のこととか隠してきたのに。……でも、新しく家族になる人なんだから、紹介するのは当たり前か。とにかく、その人が今度家にくるんだって。お母さんすごく喜んでた。お父さんも。真利姉ちゃんはいつもよりそっけなかったけど、あれは多分照れ隠しなんだと思う。それでね、できれば僕にも、そこに同席してほしいんだって。ロシアに行ったばっかりだけど、大事なことだからって」
 訥々と語られる内容は、俺がさっき死ぬほど知りたいと思っていたものだった。知りたくて知りたくて知りたくて、たまらなかったもの。
 さっきの電話で勇利が長谷津のみんなと話したことだ。
 勇利は、軽い気持ちで帰りたいと言ったわけじゃなかった。ちゃんと、理由があったんだ。
 いつもなら、そんな詳しい説明をされなくたって勇利のことを信じられたはずだ。でも、さっきの俺はそれができなかった。自分のことで頭がいっぱいで、不安な心をそのまま勇利にぶつけるみたいに、嫌な言い方をした。
 急にその事実が真に迫って感じられて、胸が苦しくなった。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう? 勇利が怒るのも当たり前だ。どうして、勇利の大切な人たちのこと勇利と同じように大切にできないんだろう?
 罪悪感がチクチクと胸を刺す。吐き出すように再びそれを口にする。
「勇利、さっきは本当に……」
 ごめん。そう言おうと思った。言うはずだった。
 勇利が口元を押さえて噴き出すまでは。
「……ぶふっ!」
 言葉は止まった。動きまで止まった。時すら止まったみたいな空間の中で、俺は目の前にいる勇利を凝視する。よく見ると、その肩は暗がりの中でも分かるほどに大きく揺れている。
「……ぶっ……ふふっ……へへ……くくく……」
 笑われてる。
 思わず眉間に力が入るのを感じた。きっと俺の眉は盛大にひそめられていたことだろう。
 勇利はどうにか笑いをこらえようとしているのか、うつむいて身体をこわばらせている。でも無理に抑え込んでいるせいで、逆に喉のあたりで笑い声ともつかない変な音が次々に漏れている。それがまた笑いを誘うらしい。漏れ出る声は徐々に大きくなり、ついには全く隠さなくなってしまった。
「ふふふふふふっ……あははっ……」
「……」
「ふはっ! あはははは!」
「……なんで俺笑われてるの?」
「あはは! だって……ふふっ!」
 不本意だ。
 よく分からないけど、なんだかとっても不本意だ。俺は真剣に謝っていたのに。
 俺の顔を見て勇利はますます笑い声を大きくした。目に涙まで浮かべている。
「そんなに笑う?」
「ふふ、ごめんごめん……あははっ、だってさ……ゴーンって……くくっ……すごい音……ふっ……」
「……」
 勇利はひとしきり笑ってから、ようやく気が済んだのか、ふー、と大きく深呼吸をした。眼鏡の下に指を入れて、涙を拭きとる。
 かと思うと、また思い出したように身体が震えた。まだ笑う気? ただでさえ力の入った眉間にますます力がこもる。
「いい加減に……」
「ごめん!」
 はっとして勇利を見る。勇利も俺を見ていた。もう笑ってはいなかった。
 真剣な目がそこにあった。
「僕も大人げなかった。ショックだったんだ。ヴィクトルに覚悟がないなんて言われて」
「……ごめん。あれは本気じゃ……」
「分かってる」
 勇利が俺の手を取って、指を絡める。
「分かってるよ、ちゃんと」
 そうだ。
 分かってる。分かってたはずなんだ。俺と勇利は、俺たちは、誰よりもお互いのことを分かってる。この世界にいる他のどんな人よりお互いのことが分かるんだ。言葉にするより、もっと直接的に、まるで心と心が共鳴するように、存在が呼応するかのように、互いが何を思っているかが分かる。
 それを信じていればいいだけだったのに。
「……ごめん」
「ううん。……いいよ、もう」
 勇利が親指の腹で、俺の手のひらをそっと撫でる。そうされると、不思議と心が澄んでいくような気がした。
 俺の中にある、濁ってドロドロとした塊が、少しずつ溶けて、嘘みたいに消えていく。なんだ、と俺は思う。なんだ、こうすればよかったんだ。こんな簡単なことで、あの苦しい思いから抜け出すことができる。勇利の傍にいて、勇利の声を聞いて、勇利と触れ合う。たったこれだけのことで。
 ふと、勇利が空いている方の手で俺の額に触れた。
 ぶつけたところをそっと撫でる。鈍い痛み。俺は勇利を見上げる。暗がりの中で、街灯の光を背負って、勇利が笑う。まるで愛しいものを見るみたいに、やさしく目を細めて、しかたないなあって顔をして、俺を見下ろす。
 ああ。
「ヴィクトルは、僕がいないとだめだね」
 ああ、それは、理屈じゃないんだ。
 衝動、というのでもない。もっとごく自然なこと。まるで、この世にあるただ一つの解法にたどり着いてしまったような気持ち。
 そうするしかなかったんだ。そのとき、その瞬間、俺にはそうする以外の選択肢がなかった。
 気づいたときには、勇利の顔が目の前にあった。くちびるに、やわらかいものが触れていた。薄い皮膚越しに感じる熱は熱かった。燃えるようだった。
「……っ!」
 勇利の身体が、びくりと震えた。大きな目が見開かれていた。反射的に後ろに引こうとした頭を手で支えて、より深く口づけた。
 勇利。勇利。勇利。
 勇利!
 心の中でこだまする。それは俺の声だ。俺の叫びだ。このどうしようもない気持ちそのものだ。皮膚の下がさざめく。これはなんだ? 動揺? 驚愕? 困惑? ……いや違う、歓喜だ。そう、そうだ、これは喜びだ。長いこと見上げるだけだったものに、ようやく手を伸ばすことができた喜び。
 本当は、ずっと勇利に、こうしたいと思っていたんだ。
 泣きたくなった。キスをして泣きたくなるなんて初めてだ。どうしてかは分からない。でも、そのキスは、今まで俺が経験した他のどんなキスとも違う意味を持っていた。他にどうすることもできなくて、もう泣くしかないような、みっともない悪あがきのようなキス。
 その時が永遠に続くような気がした。実際は、ほんの一瞬のことだろうと思う。でも、俺の感覚の中で、その一瞬は永遠になるくらい拡大され、引き伸ばされて、俺の身体をすっぽりと飲み込んだ。その短くて長い一瞬の中で、俺は途方もない幸福を感じた。泣きたくなるくらいの幸福。これまで数えきれないほど経験してきたはずなのに、キスがそんなものを連れてくるなんて俺は今まで知らなかった。知らないままの方がよかったのかもしれない。だってそれは真実ではないから。
 本当は、永遠に続く幸福なんてどこにもない。引退しないスケーターがいないように。終わらない曲などないように。
 ドン、という衝撃が身体に響いた。
 道路に倒れこみそうになって、俺は後ろに手をついた。そのときにはもうくちびるは離れていた。ほんの一瞬のことだったんだ。俺が感じた永遠は、儚いくらい一瞬の幻みたいなものだった。
「……っ!」
 その瞬間の、勇利の顔が忘れられない。両手を前に突き出して、勇利は愕然とした表情で俺を見下ろしていた。そこでようやく、俺は自分が突き飛ばされたことに気づいた。そして、自分が何をしてしまったのかも。
 ざあ、と音を立てて血の気が引いていった。
 俺は、何をした?
 勇利に、キスをした?
 自分の生徒に? 男同士なのに? 勇利の意思も確かめずに、一方的に?
 公衆の面前だということはこの際どうでもよかった。標識とぶつかった直後ならともかく、その後の会話に注目している人なんていないだろう。いたとしても、それがなんだっていうんだ? それよりもっと重大なことが今俺の目の前で起こっている。
「勇利……」
 勇利は信じられないとでもいうような目で俺を見ていた。その目が、その表情が、すべてを物語っていた。頭の中が真っ白になった。
「違う、違うんだ……」
 言い訳をしようと思った。でも、言い訳するようなことがなかった。『違う』? 違わない。何も、違わない。俺は勇利にキスをした。そうしたいと思ったからした。それだけだ。
 勇利の口が音もなく開閉する。思わず身を乗り出した俺から逃げるように、その足が一歩下がる。俺を見据えたまま、ゆっくりと頭を横に振る。
「ゆう……」
 ひゅっ、と短い音が聞こえた。勇利の喉で、空気がこすれる音。それを合図にしたみたいに、勇利がくるりと背を向けた。
「勇利!」
 俺の声なんて聞こえないかのように、勇利は夜道を走って行ってしまった。
 遠ざかる背中を、歩道に座り込んだまま、俺はただ茫然と見送った。
 
   ◇

 キスってそんなに重大なことかな?
 たかだかくちびるを重ね合わせるだけだろう? 粘膜に近いという点でより無防備な箇所だと言うこともできるかもしれないが、それは本質的には手を繋いだりハグしたりすることと大差はない。肌を触れ合わせるということ。触れ合うほど近い距離を許すということ。つまりただそれだけの意味。深いキスはともかく、ほんの一瞬キスをするだけなんて、親愛の表現という以上の意味なんてない。
 ……と、かつての俺は思っていた。正直に言えば今も少し思っている。だから簡単に「キスでもすればいいのかい?」なんて言葉が出てきたんだ。それくらいなんでもないことだったはずなんだ。
 でもその考え方は、必ずしもすべての場合においてそうだとは限らない。何事も、時と場合というものがある。そして、人と人との触れ合いにはある種の境界線みたいなものがあるのだとも思う。
 ここまでは許して、ここまでは許さない。ここまでは踏み込んでいいけど、ここからは駄目。……そういう暗黙の了解が、人と人との間にはある。自分にとってのその人の立ち位置や役割を定義する、不文律のようなもの。無意識のうちにその線はお互いの了承のもとに引かれる。決して言葉にはしないけれど、両方に聞いたら両方が一致して答えるような、確固とした境界線。その領域の中にいる間は安全だ。二人の関係は安定しているし、固定されている。でもそれを超えてしまったとき、二人の関係がどうなるかなんて、誰も保障してはくれない。きっと当人たちにも分からない。
 そういう線は目に見えないけれど確かに存在する。そして、そういう意味において、キスというのは、例えそれがどんなに軽いものであっても、他の触れ合いとは全く異なった役割を果たすことがあるのだと思う。皮膚と皮膚が触れ合うという事実以上に重大な意味。境界線を越えるということ。
 つまり、その二人の関係を、本人たちが予想もできないほどに、決定的に変えてしまうかもしれない、ということ。


 その夜、勇利は一度も俺と目を合わせなかった。
 俺が一足遅れて家に帰ってきた後も、シャワーを浴びた後も、同じ寝室で同じベッドの上で同じシーツにくるまったときも、一度として俺の顔を見なかった。勇利は、まるで不本意だという意思を可能な限り身体で表現しようとしているみたいに、キングサイズのベッドの隅で膝を抱えて眠った。俺は途方に暮れてその丸まった背中を見つめた。
 何をどう言えばいいのか分からなかった。勇利が何を考えているのかも、あのキスで何を感じたのかも分からなかった。もっと言えば、俺自身が何を考えているのかすら。分からないまま眠りについた。ひどく気まずい夜だった。人生においてワーストワンになるくらい苦い夜。
 その苦みは当然次の日もずっと続くと思っていた。目を覚ました瞬間からそんな予感がしてため息が漏れたくらいだ。勇利は俺より先に起きたらしく、シーツにはひとりの人間が寝ていたという痕跡だけがきっちり残されていた。俺は寝起きでぼんやりする頭で細かな皺の重なりを見つめた。そこに何かしらの答えがあるような気がしたけど、もちろんそんなわけはなかった。
 もう一度ため息をついて、俺は起き上がってキッチンに向かった。
 でもそこで俺を迎えたのは、予想外に明るい声だった。
「おはようヴィクトル!」
 驚いた。驚きのあまり咄嗟に返事ができなかったくらいだ。
 勇利は上機嫌に、なんなら鼻歌でも歌いだしそうなくらいごきげんで、サラダにいれるトマトを切っていた。
「お、はよう、勇利」
「寝癖ついてるよ」
 俺の頭に目をやって、勇利がおかしそうに笑う。見られたところを慌てて手で押さえたけれど、多分それだけじゃ直らないだろう。
 どうなってるんだ?
 昨日俺にキスされてショックを受けていた勇利は幻だったのか?
 それとも、そもそも俺が勇利にキスしたこと自体が夢? 酔っぱらった俺の頭が作り出した妄想?
 こめかみを指で押さえる。そんなわけない。そんなわけ……ない。あれは夢なんかじゃない。錯乱するほど酔っていた記憶もない。全部現実に起こったことだ。俺は確かに覚えている。
 それなのに、今目の前にいる勇利は、そんなこと全部忘れたみたいに振舞っている。
 まるで、最初から何もなかったみたいに。
「玉子どうする?」
「……え?」
「たまご」
 勇利が白い玉子をひとつずつ両手に持って揺らしている。
「あ、うん」
「『うん』じゃなくて。目玉焼きでいい?」
「うん」
「寝ぼけてるの? 顔洗ってきたら?」
「……うん」
 うん、なんて言った割に、俺はその場から動かない。動く気もない。俺は必死で正解を探している。
 このまま俺も、何もなかったように振舞うのがいいのか。それとも、改めて俺からその話を持ち出す方がいいのか。
 何事もなかったかのように振舞えば、すべては昨日までと同じように戻るような気がした。正確には、『戻る』というのですらない。初めから何もなかったことになる。何もなかった。あれは幻であって現実ではなかった。そして、それこそが今勇利が望んでいることのような気もする。
 だけど、俺は迷っている。果たして、そうすることが本当に俺たちのためになるのか、確信が持てない。だって、本当の意味で『何もなかった』ことになんてできないんじゃないか? どう釈明したところで実際にそれは『あった』んだから。いくら俺たちが努力したって、確かにそれは俺たちの記憶に残っているんだから。
「ねえ、ゆう……」
 思い切って口を開いたのと、勇利が玉子を割りいれたフライパンに水を入れて蓋をしたのは同時だった。俺は思わず言葉を飲み込んだ。ジュワーと、蒸気が蓋の内側で広がる音がした。ガラスの上面が白く曇って、中の様子が分からなくなる。
「ねえ」
 それを待っていたかのように、勇利が呟いた。視線は相変わらずフライパンに注がれていて、俺からはその横顔しか見えない。
 不思議な表情だった。さっきの上機嫌な顔とは打って変わって、静かな目をしていた。でも沈んでいるわけでもない。そこには何もなかった。
 何もないまま、勇利は口を開いた。その目と同じように、静かな声だった。
「なんで、あんなことしたの?」
 返事ができなかった。
 ジュワー、という音は続いている。勇利は曇ったガラス面をじっと見ている。俺はまた永遠を感じた。永遠。すぐ永遠に続くような気がしてしまう。だけど、永遠なんてどこにもない。引退しないスケーターがいないように。終わらない曲などないように。俺は、答えを示さないといけない。勇利が望む答え。……いや、違う。俺の答えだ。俺が、何を思ってそうしたのか、それを示さなくてはいけない。
 背筋にぞくっと寒気が伝った。手のひらが冷たくなった。ぎゅっと手を握ると、汗がにじんでいた。怖がっているんだ、と、それで気づいた。俺は、境界線を越えることを怖がっている。その行為が、決定的に俺たちの関係を壊してしまうことを恐れている。勇利のこの純粋な目が、失望の色に染まることを予期しておびえている。
 たかだかキスひとつだ。ただの皮膚と皮膚との触れ合いだ。でもそれは確かに重大な可能性をはらんでいた。
 俺たちの関係性が、根本から覆されてしまうような可能性。
 俺にはそれが怖い。
 今まで感じたことがないくらい、怖くてたまらない。
「……酔ってたんだよ」
 ジュワー、という音が小さくなる。勇利はじっとフライパンを見ている。
「ちょっと飲みすぎたみたい。勇利の顔が近くにあったから、ついね。気分がよかったんだ。それ以外になんの意味もないよ」
 自分の声が、空々しく響く。カラコロと音を立てる赤ん坊のおもちゃみたい。慰めにもならない。
「そう」
 肯定的とも否定的ともとれない、完全に中立的な声音。
 勇利は相変わらずずっと曇って中の見えないフライパンを見つめていた。その大きな目が、一度ゆっくりと閉じて、また開いた。
 ふいに、勇利の口元が緩んだ。何もない無表情に光が差したように、その顔に笑みが広がる。苦笑するような、仕方ないなって許容するような、緩んだ表情。つられたように、俺もそっと息を吐きだした。いつの間にか肩に力が入っていたんだ。
 よかった。
「そうだよね。まあ、酔ってたらあれくらい誰でもするよね。昨日はクリスもいて楽しかったし」
 そう言われると、本当にそんな気がしてきて、俺は黙ってうなずいた。そうだ、そうだよ、酔ってたんだ。仕方のないことだったんだ。心のどこかが悲鳴を上げているような気がしたけれど無視する。
 誰でもするわけじゃない。そんな気持ちでしたんじゃない。
 黙れ、と自分に言い聞かせる。黙れ、黙れ、黙れ。お願いだから、黙っててくれ。
「僕も酔ってたし、ヴィクトルも酔ってた。ヴィクトルなんて、標識に正面からぶつかってたしね」
「あれは痛かったよ」
「すごい音だったもん」
 ふふふ、と勇利が笑う。つられて俺も笑う。
 これでいいんだ。
 これで全部丸く収まる。
 これで何も壊れない。俺たちは元通りの関係を続けられる。これでよかったんだ。これで……。
「だけど、もう二度とああいうことはしないでほしい」
 カチッと音を立てて、勇利がコンロの火を止める。
「もう、いやだ」
 蓋を開けると、残っていた蒸気が空中に霧散する。勇利が玉子の裏面を見て、焼きすぎちゃった、とぼやく。
「……うん」
 やっとのことで、俺は言った。


 勇利の用意してくれた朝食は、サラダとトーストと目玉焼き。昨日の残りのチキン。ブルーベリーのジャムに、クリームチーズ。温めたミルク。目玉焼きは少し焦げていたけれど、まあ許容範囲内だろう。
 いつもの顔で、いつものように、勇利とあれこれ喋りながら食べた。今日はどんな練習をするのがいいのか、あの曲の表現はどうしたらもっとよくなるのか、そういえばあの選手は、あのプロは、あの大会は……。
 それは、境界線の内側だ。保障された暗黙の領域。俺たちが俺たちのままでいられる場所。そこにいることを望んだのは俺だったはずなのに、今はそれが、途方もなく悲しい。眼前にビッと引かれた黒い線。それはときに、とても残酷に人を突き放す。ほんのわずかの慈悲もなく、容赦なく、否応なく。
 朝ごはんは最後まで、味がしないままだった。
 みじめだった。


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