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僕たちは欠けている

#5

 ジャンプに入る直前、勇利と目が合う。
 ここしばらく正面から合うことのなかった目線が、真っ直ぐに俺の目を捉え、かすかにほほ笑む。
 少しの違和感。でもそれを無視して俺も笑う。コンマ一秒のずれもなく、二人の身体が同時に氷を蹴る。息が止まって、世界が回る。勇利も同じ世界を見ていることを確信する。めくるめく世界。
 着氷の衝撃。まったく同時に、すぐそばからカツン、と硬い音が聞こえる。顔を上げる。また目が合う。大きな、深い色をした瞳が俺を見ている。俺が頷くと、勇利はそれを合図にしたように次のステップに入った。
 きっとそれは、見る人の目には完璧なペアスケートのように映るんだろう。息の合った、完成度の高い演技のように見えるんだろう。だけど、何かが違った。
 心が繋がらない。目も合う。息も合う。だけど、あの高揚感がない。お互いの気持ちや思考が手に取るように分かった、あの一体感がない。まるで、伸ばした手が触れ合う前に、見えない壁に阻まれているようだ。透明でひやりとした感触。俺はそこに両手をついて、じっと勇利を見ている。壁から一歩離れて、静かにほほ笑む勇利の姿を。
 滑っている最中から、俺の心には違和感しかなかった。そして同時に、それが誰にも理解されないことも分かっていた。
 俺たちにしか分からないんだ。勇利と、俺にしか。
 音楽が聞こえる。『ラブミーテンダー』。
 やさしく愛して、と語り掛けるような歌。

   ◇

「あれどうなってんの?」
 リンクサイドで休んでいたら、同じく休憩に入ったミラが素っ頓狂な声で尋ねた。
「あれって?」
「あれ」
 そう言ってミラが視線を送る先には勇利がいる。ペアの曲合わせが終わった後も、もう少し滑っていたいからと言って、勇利だけひとり練習を続けている。
 俺たちが見ていることには気づいていないんだろう。勇利はリラックスして滑っている。何の気負いもなくジャンプの準備態勢に入り、カッ、と鋭い音を立てて軽々と跳びあがる。一回、二回、三回、四回……安定した四回転フリップ。危なげなく着氷すると、勇利はそれを特に喜ぶわけでもなく、当然といった顔をしてしばらく流す。そしてまた、ごく自然にジャンプの態勢に入り、軽々と跳びあがる。――四回転フリップ。涼しい顔だ。まるで成功することが当たり前だと思っているような。
「さっきから一度も失敗してない。どうなってんの? ペアの曲合わせも完璧だったし……あんたたち二人とも昨日まで絶不調だったじゃん」
 俺は肩をすくめてみせる。何も答えられない。だって俺が聞きたいくらいなんだから。
 勇利が一晩中泣き明かしたのは昨夜……つまり、今朝までの話。俺に「全部忘れた」と宣言した後から、勇利は明らかに変わった。憔悴した様子はなくなり、涙も見せなくなった。声も明るくて、まるでその宣言通り泣き明かしたことすら忘れたように見えた。楽し気にマッカチンとじゃれ合う姿を見ながら、俺は無言で宙に問いかけた。
 どうなってるんだ?
 その疑問はリンクについてからますます深まった。
 勇利からペアの曲かけ練習をしたいと言ってきたんだ。ここ最近の俺たちの調子を考えれば、いきなり曲を通して滑ることにあまり意味はない。そういう説明をしたが、勇利は納得いってないようだった。なんとか説き伏せて部分的な練習を始めたけれど、それが昨日までの不調がうそみたいによく合う。まさかと思って曲をかけて通してみると、これまでまったく合わなかったのはなんだったのかと思ってしまうほど、何もかもが完璧に揃った。勇利は「ほらね」みたいな顔をした。そのころになると、泣き明かしたせいで腫れていた両目もすっかり元に戻っていて、それがますます俺の中の違和感を強めた。
 どうなってるんだ?
 どうしたらそうなる?
「……恋を諦めたら、スケートってうまくなるの?」
「はあ?」
 思わず呟いた疑問に、ミラが変な顔をする。
「そんなことでスケートがうまくなるなら誰も苦労しないって」
「だよね」
「……いや待って。うまくなるかも」
「え?」
 ミラが嫌そうな顔で目を細める。視線の先を目で追うと、そこにはギオルギーがいた。様子がおかしい。……泣いている。
「真実の愛などない!」
 思わず顔が引きつった。ギオルギーはウオオオと雄たけびのような声で気合を入れると、ジャンプに踏み切った。飛び散った涙がキラキラと輝く。見事な四回転。彼のいるところだけ選手の姿が少ないのは、みんなが遠慮して場所をあけているせいだろう。
「……あれどうしたの?」
「クリスチーナに振られたんだってさ」
 なるほど。近いうちにこの日がやってくるような気はしていたけれど、それは今日だったわけだ。
 練習ではあるが、彼の滑りにはどこか鬼気迫るものがある。覚悟がきまっているというか、吹っ切れているというか、とにかく昨日までのギオルギーにはなかった緊張感とエネルギーがあり、それがスケートにいい影響を与えているようだった。
「人は孤独な生き物だ!」
 滑りながらギオルギーが叫ぶ。リンク中の視線が彼に集まる。でもみんなもう慣れているので変なものをみるような目というよりは、「またか」という呆れ顔だ。
「愛などいらぬ! 人は孤独によってのみ強くなれるのだ! 愛の強さなどまやかし! 恋の力など幻想! 人はひとりで生まれ、ひとりで生き、そしてひとりで死んでゆく! そう、人は生まれながらに孤独な生き物なのだ!!」
「……壮大だね」
「いちいち大げさなのよ」
 ミラもすっかり呆れているようで、リンクサイドの柵に頬杖をついて息を吐いた。
「でもまあ、あたしも失恋した直後はスケートに打ち込んだなー。他にやることもないっていうか、彼のこと考えたくなくてさ。結局、どっかの回路を遮断したらそれ以外の回路を使うしかないんだよね」
 どこかの回路を遮断したら、それ以外の回路を使うしかない。
 勇利も回路を遮断したから、スケートの調子がよくなったんだろうか? つまり、優子のことを想う回路を。
 そうだとしたら、その選択はきっと正しいものではなかった。遮断されたその回路は、きっと今までずっと勇利のスケートの根幹をなしていたものだったんだ。他の誰にも分からないかもしれない。でも一緒に滑った俺には分かる。俺だけには、はっきりと感じ取れる。
 勇利の調子はよくなったわけじゃない。表面上はそう見えるだけ。本当は、そこには空洞がある。次々に成功する四回転フリップの裏側にある何もない空間。ほほ笑みにごまかされた空虚さ。今まで勇利のスケートに感じられた熱量のようなものが、すっかり消えてしまっている。
 消えてしまったものを一言で言うと、愛、になるんだろう。身体中で言葉を紡いでいるような、必死さと切実さを伴った誰かへの想いが、すっかりなくなってしまっている。
 罪悪感で息が詰まる。
 そうなるように、俺がした。俺が仕向けた。
 俺が、勇利のスケートから、大切なものを奪ってしまった。
 俺の、あの一言が。
 ――叶わない恋なんて無意味だ。
 勇利から、優子を奪ってしまった。
「いいの?」
 はっとして顔を上げると、ミラの深い青色の目が俺を見ていた。
 一瞬心の中を読まれたかと思ってぎくりとしたが、ミラが言っていたのはそのことではなかったらしい。
「さっきからずっとジャンプの練習してるけど、止めなくていいの?」
「えっ……? あっ! 勇利! ストップストップ!」
 慌てて止めに入ると、まさに今またジャンプを――おそらく、四回転を跳ぼうとしていた勇利が、踏み切りだけしてふわっと着氷し、こちらを向いた。
「どうしたの?」
「どうしたのじゃない。ジャンプの練習はちょっとだけって言ったろ? オーバーワークだよ」
「調子いいから大丈夫だよ」
「勇利」
 そういう問題じゃない、と言いかけて、言葉に詰まった。
 勇利が、俺を見ていた。深い色をした瞳が、真っ直ぐに俺の方を向いていた。ここしばらくこちらを向かなかった視線が、今は俺を射抜くように見ている。
 ――僕のことはほっといて。
 またそういうことを言われるような気がした。なんでそんな気がしたのかは分からない。勇利との間に、決定的な距離を感じていたからかもしれない。
 変わってしまった勇利。そうなってほしいと……つまり、優子のことを忘れてしまえばいいと思ったのは俺だ。でもいざそうなってみると、誰よりも戸惑っているのもまた俺だった。
 勇利の考えていることがよく分からない。
 この間まで、何もかも通じ合えると思っていたはずなのに、今は途方もなく遠く感じられる。
 俺はもしかして、取り返しのつかないことをしてしまったんじゃないのか?
「分かった」
「……え?」
「休憩するよ」
「あ、うん」
 意外にも素直な返答が帰ってきて驚く。勇利はそんな俺の様子を気にした様子もなく、おどけたように笑って首を傾げた。
 そして続いた勇利の言葉は、思いもしないものだった。
「その代り、海に行きたい」
「……海?」
 俺はあっけにとられた。スケートの練習中に勇利がそんなことを言い出すのは初めてだったからだ。暇さえあれば氷の上にいたいと思うような勇利が、海?
 俺の困惑をよそに、勇利はパチン、と器用にウインクまでしてくれる。
「海に連れてってよ」

   ◇

 サンクトペテルブルクはフィンランド湾に面した港町として栄えてきた。街の中には湾に流れ込む幾本もの河川が走っており、それに分断された三角地帯を結び付けるかのようにいくつもの橋が架かっている。川と、橋と、その果てに広がる海。この街に住まう人にとって馴染みのある風景だ。
 しかし、思い返してみると勇利がこの街に来てから一度も海を見に行ったことはなかった。生活に必要な店をいくつか巡ったくらいで、観光すらまだだ。休みの日に見て回ろうとは話していたが、引っ越しの片付けやアイスショーの準備に追われて結局どこにも案内しないままになっていた。
 いい機会じゃないか、とヤコフが言った。観光なら今のうちにしておけ、今が一番いい季節だからな、と。
 そんなわけで、俺と勇利は午後の練習を休んで、ネヴァ川沿いを歩いていた。トロリーバスを使うこともできたが、散歩がてら歩くことにしたんだ。練習を休むことになったというのに、勇利はそれについては特に気にしていないようだった。俺はともかく勇利なら、いつもは練習ができないとなると途端に不安がるというのに。
 隣を歩く勇利の表情は不似合いなほど晴れやかで、だからこそ俺は余計に戸惑った。まるで別人だ。
 俺の知る勇利ではないみたい。
「気持ちいいね」
 勇利が頭の上に手をかざしながら空を振り仰いだ。青々と茂る街路樹に日の光が透けて、アスファルトの地面にちらちらとこぼれている。さわやかな風が吹き抜ける度にざわざわと木の葉がこすれ合う音がする。
「ヤコフの言う通り、今が一番いい季節だからね」
「日本の夏もこれくらいの気温だったらいいのに」
「長谷津の夏は暑かったよ。でもその代り冬が短くていい」
「ロシアに比べたらね」
 とりとめもない話。本当に、とりとめもない。勇利はきっと、何も思っていない。だけど、俺は急に気になってその疑問を口にした。……いや、急に、じゃない。ずっと前から思ってたんだ。
「勇利は、この街に来たことを後悔してる?」
「え?」
「日本に帰りたいって思ってる?」
 何気ない風を装っていたけれど、それは俺の本心からの疑問だった。勇利もそれを感じ取ったのか、一瞬沈黙が流れた。
「どうしてそんなこと聞くの?」
「なんとなく、思っただけだよ」
「僕、帰りたそうに見えた?」
 それは純粋な疑問で、責めるような意味は少しも込められていなかった。でも俺は答えらえなかった。勇利は笑った。
「覚悟がなさそうだった?」
「そういうわけじゃ……!」
「してないよ」
 勇利は前を向いた。その横顔は、何か決意のようなものを感じさせた。
「この街に来たこと、全然後悔してないよ。スケートを続けている限り、いつかはこうなるような気もしてたんだ」
 こうなるって、どういうこと?
 尋ねる前に、勇利がまた俺の顔を覗き込んで笑った。
「って言いながら、もうすぐ一度日本に帰るんだけどね」
「……ゆっくりしてきなよ。みんなも会いたがってるだろうし」
「うん、そうする」
 優子のことは、努めて考えないようにする。でも、わざわざそうしなくても、俺の中にあるドロリとした感情は以前より湧いてこなかった。なぜだろう? 勇利に、諦めさせたから? そうだとしたら、そんなことで安心する自分は、とても卑小だ。
 振り切るように、別の話題を振る。
「そういえば、出発の朝はクリスが空港まで送ってくれるって」
「クリスが? なんで?」
「クリスの時間が空くのがその日しかないんだよ。勇利と入れ違いになっちゃうねって話したら、せっかくなら見送りたいって」
「見送りって……ちょっと日本に帰るだけだよ?」
「でもクリスもスイスに帰っちゃうから、勇利とはもう会えないだろ?」
「そうだけどさあ」
 積極的に人付き合いをしようとしない勇利にはピンとこないらしい。勇利らしいと言えば勇利らしかった。俺はどちらかというとクリスの気持ちの方がよく分かる。
「また顔を見たいだけだよ」
「この間一緒にご飯食べたばっかじゃん」
「送ってくれるって言うんだから、甘えたらいいだろ?」
「そうだけど……ていうかなんでクリスが車持ってるの?」
「レンタカーじゃない? あちこち回るって言ってたし」
 そんな話をしていたら、ちょうど通りかかった公園からふいに音楽が聞こえていきた。
 気持ちのいいスウィング。ギターとドラムの音。高らかに歌う女性の声。どこかでストリートライブをやっているようだ。
 そのときふと、いいことを思いついた。
「ねえ、見に行かない?」
 俺の頭の中にはあの光景があった。
 あの、勇利がこの街に引っ越してきた最初の日。ふたりで買い物に出かけて、その途中で遭遇したストリートライブに便乗して、一緒に踊ったこと。俺の挑発にやすやすと乗った勇利が見せた、気持ちのいいダンス。心と心が繋がって、言葉にしないでも気持ちが伝わる瞬間。
 もう一度、あれを感じたい。
 多分、縋るような気持ちだったんだと思う。さっき、リンクでペアの曲を滑っているとき、いつも感じられるその感覚がなかった。今だって、俺には勇利の考えていることが分からない。でも、それは何かの間違いのような気がしていたんだ。
 あの時のように一緒に踊れば、きっと全部うまくいく。そんな、縋るような気持ちだったんだと思う。
 でも、勇利はすぐに返事をしなかった。その時点で、俺の心は失望に包まれていた。
 勇利は静かに首を横に振った。ごめん、と言いたそうな顔だった。ごめん、でも。
「早く、海に行きたいんだ」
 その瞬間、分かった。
 勇利は単純に、海を見たいから海に行きたいと言ったんじゃない。そこで何かをしようとしているんだ。それが何かは分からなかったけれど、勇利は大きな覚悟を決めている。それは多分、俺と勇利の関係を決定づける何かだ。
 それに気づいてからは、何もかも上の空になってしまった。さっきまで楽しんでいたはずの勇利との会話も、目の前に広がる風景も、これから俺たちを待ち受ける『何か』の前ではささいな意味しか持たなかった。
 勇利は何をしようとしているんだろう?
 俺たちは、どこへ向かっている?
 途切れがちな会話が、この先のふたりの行く末を暗示しているような気がして陰鬱な気持ちになった。
 さっき、勇利はこの街に来たことを後悔していないと言った。でも……。
 そんなことを考えているうちに、いつの間にか長い距離を歩ききっていたらしい。気が付くと、俺たちはそこに立っていた。
 青い空の下に果てしなく広がる水面。ネヴァ川の終わり。バルト海の始まり。そして、この街の出口。
 海だった。

   ◇

 浜辺に人はいなかった。
 近くにもっと景観のいい開けた砂浜があるので、夏の日差しを求めている人々はそちらに集まっているのだろう。すぐ隣にあるドックには大きな客船がいくつも停まっていたが、不思議なほど人の気配はなかった。遠くの桟橋に、小さな釣り人の影だけ見えた。
 海風で勇利の前髪が煽られる。眩しそうにその額に手をかざして、勇利は空を見上げた。
「カモメだ」
 空には白い影が舞っていた。十数羽ほどのカモメが強い風を大きな羽で悠々と受け止めている。時折、風の合間にキューキューという鳴き声が聞こえる。
 勇利の足元に、波が打ち寄せて、あと少しのところで届かず沖へと返っていく。白い泡だけがわずかに残り、そしてまた、それをかき消すように小さな波が打ち寄せる。
 ざざーんと、夏らしい音。
「長谷津で一緒に海を見たこと覚えてる?」
 沖合に目を向けたまま、勇利が言った。
「覚えてるよ。勇利がしばらく俺のことを避けた後だった」
「よく覚えてるね、ヴィクトルなのに」
「勇利との思い出は忘れないよ」
 勇利は俺を一瞥して、少しだけ笑った。
 さみしそうな笑い方だった。
 どうしてそんな顔をするのか、俺には分からない。俺にはもう、何も分からない。
「じゃあ、僕がヴィクトルにどういう存在でいてほしいって答えたかも、覚えてる?」
「……覚えてるよ」
 勇利は長い前髪を指先で耳にかけた。あの時、長谷津で一緒にいたときにはなかった仕草。長く伸びた黒髪が、俺たちの過ごした時間の長さを思わせた。
 あれから長い月日が経った。あのとき、勇利はこう望んだはずだ。
「俺には俺のままでいてほしい……って、勇利はそう言ったんだ」
「あってる」
 勇利は笑った。やっぱり、さみしそうな顔だった。
「俺、あのときすごくうれしかったよ。勇利がそのままの俺を認めてくれてると思って」
「うん、僕も、初めてヴィクトルと打ち解けられた気がしてうれしかった」
「ようやく心が通じ合ったと感じた。やっと勇利の考えていることが分かった気がした」
「うん、僕も」
「あれから一緒に過ごすうちに、もっともっと勇利のことが分かるようになった。俺が誰よりも勇利の傍にいると思ったし、俺にとっての勇利もそうだ」
「うん」
 ああ、繋がらない。言葉の上では同じ気持ちを共有しているはずなのに、その手ごたえのようなものがない。俺と勇利の間に横たわる、透明な壁。縮まらない距離。
 もどかしい。切ない。苦しい。届かない。
「……じゃあ、なんでそんな顔するの?」
 勇利の目線がこっちを向いた。常から下がり気味の眉がますます下がって、困ったような表情をつくる。
「そんな顔って?」
 そんな顔だよ。
 でも俺は何も言えずに、ただその目を見つめる。
 ざざーん、と、波の音がする。
「ねえヴィクトル、お願いがあるんだ」
 きた。
 自分の顔が強張るのが分かった。勇利に何を言われるのか……勇利がどんな覚悟で俺をここに連れてきたのか、ようやく明らかになる。無意識に力が入って、手を握る。手のひらにはじっとりと汗をかいていた。
 勇利は覚悟を決めたように小さく息を吸って、言った。
「ヴィクトルには、この先もヴィクトルのままでいてほしいんだ」
 咄嗟に、自分の理解を疑った。
 頭の中で反芻し、その意味を何度もなぞって、やっぱり最初の理解で間違いがないことを確認する。
「……それだけ?」
「え? 何が?」
「いや……もっと俺に、言いたいことがあるのかと思って」
「なにそれ?」
 拍子抜けだった。てっきり、もっと大きなこと……例えば、「やっぱり拠点は日本にする」とか、「コーチを変える」とか、「終わりにしよう」とか、そういう大きな爆弾を落とされるかと思っていたんだ。
 強張っていた身体から急に力が抜ける。勇利は俺の緊張なんてまったく気づいていなかったみたいで、不思議そうな顔で首を傾げている。
 いや待て、『あの』勝生勇利のことだ。そうやって油断したときこそ危ない。
「本当に何もない?」
「えっ、ないよ?」
「本当に本当に何も?」
「ヴィクトル、顔怖いよ?」
「ないの?」
「ないってば」
「本当だね? 信じるよ?」
「うん、信じていいよ」
 勇利は力強く頷いた。断言した、と言ってもいいような口調。
「僕がヴィクトルに願っていることは、本当にただそれだけだよ」
 俺が違和感を抱いたのは、その迷いのない言い方のせいだった。
 つまり、勇利はなぜわざわざ改めて俺にそれを宣言したんだろう、と思ったんだ。
 練習を休んで、俺たちの思い出の場所とも言うべき海まで来て、あえて今更とも思えることを宣言した意味とは、なんだろう?
 今、勇利は何を思ってここにいるんだろう?
 どんな気持ちで、今、俺の顔を見ているんだろう?
 目の前にいる勇利は、いつも通り、何もおかしなところなんてないように見える。でも、「おかしくない」ことがむしろおかしいじゃないか? 何もなかったら、そもそも大好きな練習を休んでまでこんなところに来ないはずだ。本当に何もなければ、さっきのようにさみしそうな顔は見せないはずだ。
 何かが起こっている。俺は確信した。勇利の言葉が迷いないものだったからこそ疑った。
 勇利は、何かを隠している。
「ねえ、ゆう……」
 そう言いかけたとき、街の方で鐘が鳴った。ゴーンゴーンと空に響く、教会の鐘の音。
 一瞬そっちに気を取られて、目線を街へと向ける。
 俺が視線を勇利に戻すのと、勇利が音もなく口を動かしたのはほとんど同時だった。
 その瞬間、俺は戦慄した。
「今……なんて言った?」
「……なにも言ってないよ?」
「嘘だ」
 高い崖から突き落とされたような気がした。背筋に嫌な汗が流れる。心臓がバクバクと、破裂しそうなくらい大きく拍動している。眩暈がした。急に酸欠になったみたいだ。
「俺は見た。勇利は、今、言った」
「言ってない」
「言ったよ」
 確かに、声はなかった。あるいは、俺には届かないほど小さな声だった。どちらにしても、勇利が俺に聞かせるつもりで呟いたわけではないことは確かだ。
「勇利は、今、確かに……」
 むしろ逆の気持ちだったんだろう。
 俺に聞かせるつもりはなかった。だから俺が見ていない隙を狙って、その言葉を口にしたんだ。
「『さよなら』、って……言った」
 海風が、俺たちの間を吹き抜けていった。
 勇利はその顔に、なんの表情も浮かべていない。否定するでも、肯定するでもない。ただ、じっと俺の顔を見つめている。
 俺は言葉を続ける。その声はみっともないほど震えていた。
「『さよなら』って、言ったよね? 見間違いじゃない。一瞬だったけど、確かに見た。勇利の口はそう動いていた。……ねえ勇利、どういうこと? 『さよなら』ってどういう意味? ……もしかして、やっぱり日本に帰りたいって……」
 俺の言葉を遮るように、勇利が首を横に振った。
「帰りたいだなんて思ってないよ。僕はこの街でヴィクトルと一緒にスケートを続けていく」
「じゃあ、『さよなら』って何?」
「……」
 それには返事をしない。
 大きな不安が俺を襲った。昨日感じたのと同じ不安。勇利がこのままどこかにいなくなってしまうんじゃないかという不安だ。
「ねえ勇利、帰ってくるよね? ……日本に戻っても、ちゃんとこの街に帰ってくるよね?」
「うん、帰るよ」
「俺の家に、帰ってくるよね? ちゃんと、俺のところに戻ってくるよね?」
「うん、戻ってくるよ」
 なんでだろう? 勇利はちゃんと戻ってくると答えているのに、不安が消えない。勇利が何を考えているかが分からない。何に対して、『さよなら』と言ったのか。
「俺たち……これからも一緒に、スケートできるよね?」
 勇利は苦笑した。俺があまりに取り乱していたせいだろう。勇利は苦笑したまま、まるで子供をあやすみたいに、「できるよ」と答えた。
 日の光を受けた海が、勇利の背後でキラキラと光っていた。まるで、勇利という人間を表しているみたいだ。……正確には、俺から見た勝生勇利という人間を。眩しくて、輝いていて、とてもきれい。――とても、きれいなんだ。泣きたくなるぐらい。
 光を背にして、勇利が笑う。長くなった髪が風になびく。
ヴィクトルは・・・・・・この先もずっと僕のコーチだよ・・・・・・・・・・・・・・
 勇利が笑っている。さっきまで見せていたさみしそうな笑顔じゃない。何かを吹っ切ったような晴れやかな笑顔。
この先もずっと・・・・・・・僕のコーチだ・・・・・・


 そのとき感じた気持ちを、俺はそれから数日の間考え続けることになる。
 うれしいはずだった。勇利が俺とずっとスケートをすると宣言してくれたんだ。うれしくないはずがない。むしろそれこそ俺が求めていた言葉のはずだった。
 だけど、それだけじゃなかったんだ。そのとき、俺の心に浮かんだのは、必ずしもポジティブな感情ばかりじゃなかった。それは、不自然に明るい勇利の言い方のせいでもあったし、その前に続く勇利の不可解な行動のせいでもあった。もちろん、それ以前の、俺と勇利の微妙な関係性の変化のせいでもある。
 俺たちの間には、様々な文脈があった。長谷津で出会ったときから考えれば……いや、もっと前かもしれない。勇利が長谷津でスケートを始めたときから、俺がこの街でたったひとりで戦い続けていたときから、その文脈は繋がっている。俺はその、俺たちの長い長い物語を踏まえた上で、勇利がその日俺に告げた言葉の意味を考えた。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 そうしているうちに、勇利が日本に帰る日がやってきた。
 滞在予定は一週間。昼の飛行機なので朝に出れば間に合う。空港まではクリスが見送りがてら送ってくれることになっている。もちろん、俺も一緒に空港まで見送りに行く。いつもの時間に起きて、朝ご飯を食べて、クリスを待って一緒に出よう。荷物はもう全部準備してある。
 前日の夜に、そう話していたはずだった。そうして、いつものように同じベッドに入って眠った。
 なんとなく、予感はあったんだ。はっきりと言葉にはなっていなかったけれど、俺の心の奥の方には確かに、予感のようなものがあった。
 だから、翌朝目が覚めた時、隣に勇利の姿がなくても、俺はもう取り乱さなかった。
 予感はしていたんだ。
 海に行った日から、勇利は何度も俺に「いなくならない」という趣旨のことを話していた。でも、俺の心はそれを本当の意味では信用していなかったんだろう。文脈とはそういうことだ。どんなに言葉を重ねても、記憶は塗り替えられない。俺が衝動的に勇利にキスしたことも、勇利がそれを拒絶したことも、俺が醜い嫉妬から恋を終わらせるよう仕向けたことも、勇利がそれで泣いたことも、何もなくならない。ただ、積み重なっていくだけだ。同じようにあの日、俺に声もなく「さよなら」と告げた勇利の表情が、俺の頭から消え去ることもない。それが俺たちの文脈。
 だから、半分は納得していた。いないことを納得しながら、それでも俺は探した。
「勇利」
 キッチンも見た。リビングも見た。勇利の部屋も、トイレも、バスルームも、もう一度戻ってベッドルームも、全部見た。だから、間違いない。
 勇利はどこにもいなかった。
 そのとき、ふと気が付いた。何のきっかけもなく、ただ、空からその考えが頭の中に落ちてきたかのように、唐突に腑に落ちた。
 耳の中に、勇利の声がよみがえる。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 ああ、そうか。それは、そういう意味だったんだ。
 俺は、勇利にとってコーチ以外のものにはなれない。
 この先ずっと、何にもなれない。
 勇利はそう、俺に告げたんだ。


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