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僕たちは欠けている

#1

「〝ピチットオンアイス〟?」
 俺と勇利の声が見事に重なった。思わず顔を見合わせると、スマートフォンの小さな画面の中でピチットが笑い声をあげた。
『正式には違う名前なんだけどね』
「でも、ピチット君がプロデュースするんでしょ?」
『うん。スポンサーに「タイでアイスショーがしたい」って言ったらあっという間に話が進んでさ。やっぱりグランプリファイナルに出場したのがよかったみたい』
「タイでもすっごく盛り上がったって言ってたもんね」
 勇利の言葉にピチットがくすぐったそうな顔をする。
『夢みたいだよ。ずっとタイの人たちにもフィギュアスケートの魅力を分かってもらいたいと思ってたから』
 勇利がうれしそうな顔でうんうんと頷く。その表情を見るだけで、俺までうれしくなって、思わず顔がほころぶ。
『それでね、よかったら二人にも出演をお願いしたいんだけど……』
「出たい! 絶対行くよ!」
『ほんとに? ありがとう!』
 勇利が目線を俺に向ける。慌てて崩れ切った表情を引き締めたけど、間に合ったかどうかは分からない。
「もちろん、俺もOKだよ」
『ヴィクトルもありがとう! 二人がきてくれたらきっとみんなびっくりするよ。正式な依頼は後で事務局から連絡がいくと思うから』
「うん、待ってるね。〝ピチットオンアイス〟、じゃなくて……なんだっけ?」
『〝ラバーズオンアイス〟。愛がテーマのアイスショーなんだ』
「愛がテーマ……」
 勇利が複雑そうな顔をする。
『詳しい話はまた今度。何を滑るか考えておいてね』
「OK」
『忙しいのに二人ともありがとう。引っ越しがんばって』
「ありがとう。またね」
 通話を終えて、スマートフォンの画面がホームに戻る。数秒の間をおいて、勇利が顔をこっちに向けた。やっぱり複雑そうな顔をしてる。
「愛がテーマ、だって」
「勇利の得意分野じゃないか」
「やめてよ」
 ふふふ、とおかしそうに笑う。
 愛をテーマに掲げて勇利が世界と戦っていたのは、ほんの数週間前の話だ。シーズン最後となる世界選手権を終えてから、勇利は荷物をまとめてここサンクトペテルブルクに引っ越してきた。これからは俺やユリオの所属するチムピオーンスポーツクラブで共に練習することになる。
 今日はその記念すべき引っ越し第一日目。
 なんだけど……。
「ねえ、本当にいいの?」
「何が?」
「本当に、ヴィクトルの家に住まわせてもらっていいの?」
 勇利はまだこんなことを言っている。
 去年のグランプリファイナルで二人とも現役を続けると決めたときから、散々話し合ってきたというのに、勇利は未だに納得がいっていないらしい。リビングの片隅に積み上げられた自分の荷物を見てもまだそんなことを言うんだ。
「ロシアに来ていきなり一人暮らしなんて現実的じゃないよ。部屋なら余ってるし、冷蔵庫にもクローゼットにも余裕がある。俺もうれしい。マッカチンも喜ぶ。いいことずくめだ」
「でも、迷惑じゃ……」
「勇利」
 名前を呼んで目線を合わせると、勇利が一瞬息を飲んだ。アジア人特有の、深い色の瞳をじっと見つめる。見ている間に、勇利の白い頬が紅潮していった。
 心の中に温かいものが広がって、俺は自然と頬が緩むのを感じた。
「俺は勇利と一緒にいられてすごくうれしい。何度も言ったろ? 去年のグランプリファイナルからずっとこの日を待ってたんだ」
 勇利がたじろいだように視線を逸らす。長谷津で共に暮らしていた頃より長くなった髪が、赤みを帯びた頬に影を作った。
「う、うん……」
「俺と一緒に暮らそう」
「ヴィ、ヴィクトル! 手!」
 手?
 言われて手元に目を落とすと、いつの間にか勇利の手をしっかりと握っていた。自分の無意識に感心する。
「手、はなして……」
「なんで? いいじゃないか」
「いいから!」
 仕方なく手を離すと、勇利は狐に見つかったウサギみたいな素早さでソファーの隅に逃げると、クッションを抱えて丸くなってしまった。まるで俺から自分の身体を守るみたいに。
「勇利……それどういう反応?」
「め、メンエキが……」
「免疫?」
 クッションの端をぎゅっと掴んで、勇利が言う。長くなった髪から覗く耳は真っ赤に染まっている。
「免疫が、つくまで待って。……しばらく離れてて、なくなったみたいだから」
 免疫。
 思わず噴き出した。
「笑わないでよ! 僕本気なんだから!」
「ごめんごめん」
 胸の中の温かいものはますます質量を増して俺の身体をいっぱいにする。指先まで染み渡るように熱が広がっていく。
 ああ、幸福だ。幸福って言葉を辞書で引いて、そこにこのことだよって書き加えたいくらいの、文句なしの幸福。
 クッションに顔を埋めてしまった勇利をこれ以上狼狽させないように、俺は何気ない口調を心掛けながら言う。
「息抜きに、ベッドでも見に行こうか」

   ◇

 免疫、という表現はとても的確だ。
 俺も久しぶりにこうして勇利と顔を合わせて、免疫の問題としか思えないできごとに遭遇して内心少し戸惑っている。
 そのできごとというのは、俺の記憶の中にある勇利の印象と現実に目の前にいる勇利の印象の明らかな差異。それも、悪い意味ではなく素晴らしくいい意味で。
 端的に言うと、勇利がとてもかわいく見えるんだ。
 それはもう、とんでもなくかわいい。びっくりするほどかわいい。道行く人ひとりひとりにいちいち見せびらかして語りたくなるくらいすっごくかわいい。とってもキュートだ。
 サンクトペテルブルクの橋の上で再会した瞬間から、そのかわいさに俺はすっかりまいっている。
 覚えている限り、少なくとも去年のグランプリファイナル前まではそういう風に感じたことはなかったはずだ。もちろん、生徒としてかわいいとは常に思っていた。けれど、そういう「かわいさ」と今勇利の顔を見て抱く「かわいさ」はちょっと違う種類な気がしている。
 一番近い感覚は、勇利と最初に会った夜。バンケットで「びーまいこーち!」と言われて抱き着かれたとき。あのときに感じたのと同じような気持ちが、今の勇利を見ていると常に心に広がる。身体の中に温かいものが湧き上がってきて、とても幸福な気持ちになる。
 きっとこれが、勇利の言う免疫の問題ってやつなんだろう。ずっとそばにいると慣れてしまって分からなくなるけれど、こうして少し時間を置くととても新鮮で強烈な感情のように思う。きっと数日も一緒に過ごせばまた慣れていくはずだ。
「わー、すごい。きれいだね」
 隣を歩く勇利が歓声を上げる。
 荷ほどきの息抜きに買い物に出かけた俺たちは、ネフスキー通りを目指して歩いていた。
 顔を上げると、ペパーミントグリーンの外壁と白い柱で作られた大きな建物が目に入る。
「エルミタージュ美術館だ」
「こんなに大きいんだ」
「今度休みの日にゆっくり見にこよう。中は広いからね。……そうだ。せっかくだから、アレキサンダー・ガーデンを歩こうか」
「うん!」
 美術館の周囲は観光客でにぎわっている。ネヴァ川の氷も解け、そろそろ観光にもいい季節になってきた。俺にとっては見慣れた風景のはずなんだけど、その中に勇利という存在がいるだけで、全く違うもののように見えてくる。まるで、世界を丸ごと洗って新しい絵の具で色を付けなおしたみたいに。
 そんなことを考えていたら、勇利が急に小走りになった。庭園を囲む柵のところまで行って、くるりと軽やかに振り向く。
 あ、かわいい。
「ヴィクトル、見て見て」
 かわいいだけじゃない。なんだか眩しい。小さな光の粒子が、勇利の周りをきらきらと舞っているような気がする。
 免疫。……と、俺は思う。
 免疫がないから、ドキドキする。少し息苦しいぐらい。でも、嫌な気持ちじゃない。決して。
 勇利が示していたのは、柵の隙間から顔を覗かせる小さな花だった。細い茎に薄紫の花が鈴なりになってこうべを垂れている。
「ああ、それはリラの花だよ。この時期あちこちに咲くんだ」
 勇利が鼻先を埋めるようにして匂いを嗅ぐ。
「甘酸っぱくて、いい匂い」
 免疫、免疫、免疫。
 心の中で呪文のように唱える。
 すべては免疫のなせる業だ。……つまり、去年までは免疫があったから気づかなかったんだろうか?
 目の前にいる人が、こんなにもかわいいということに。
「……花びらが五つの花を見つけたら、食べてね」
 胸の鼓動をごまかすために、そんな話をする。
「え?」
「そういう言い伝えがあるんだ。花びらが五枚のリラの花を食べると、願い事が叶うんだって。だからロシアの子供たちは、この季節になると五枚のリラの花を必死で探して食べるんだよ」
「へえ、おもしろいね。ヴィクトルも食べたの?」
「どうだったかな? 何回かは食べたと思うけど……もう忘れちゃったよ」
 勇利の大きな目がきょろきょろと花の上を移動する。
 しばらく見守っていると、勇利は何度か花の間を手で分け入って探した後に、うーん、と残念そうに肩を落とした。
「ない……」
「簡単に見つからないからこそ、そういう言い伝えがあるんだろうしね」
「……今度また探しにこよう」
 勇利の口調が本当に残念そうで、俺は思わず聞いてしまった。
「そんなに叶えたい願い事があるの?」
「えっ!?」
 飛び上がるようにして勇利は顔を上げた。
 あんまりな驚きように、逆にこっちが驚いてしまう。お互い驚いた表情のまま見つめ合って固まる。勇利の口が声もなくパクパクと動く。みるみるうちにその顔が赤く染まっていって、何か悪いことを聞いたんだろうかと不安になったころにようやく絞り出すような声が漏れた。
「……べ……」
「『べ』?」
「別に…………」
 どう見ても『別に』って反応じゃない。
 勇利のことだから、きっと願いごとはスケートのことだろう。金メダルを取りたいとか、俺に勝ちたいとか、そんなところだ。
 でも、それならどうして、俺に隠したりするんだろう?
 どうしてこんなに、恥ずかしそうな顔をする?
 すっごく気になる。でも、ここまであからさまにごまかしているものをわざわざ追及するのもかわいそうな気がする。
 そんなことを考えていたら、勇利が振り切るように顔を背けて、さっさと歩きだしてしまった。
「待ってよ勇利!」
 照れ隠しなのか、歩調が速い。慌ててその後を追うと、髪の隙間から見える耳が真っ赤に染まっていることに気が付いた。気づくと同時に、まるでそれが合図になったみたいに勇利が振り向く。
「ヴィクトル、早く」
 照れくさそうにはにかんだ顔。
 胸の奥がじんとしびれたように熱くなる。
 かわいい。
 かわいい。
 かわいい。
 俺の勇利は、こんなにもかわいい。
「今行くよ」
 そのことで頭がいっぱいになって、俺はさっき思った疑問をすっかり忘れてしまった。
 
 
 アレキサンダー・ガーデンはサンクトペテルブルクの中心地に開かれた庭園だ。
 ネヴァ川を渡るパレスブリッジのすぐそばに位置していて、エルミタージュ美術館のウィンターパレスガーデンとは通りを挟んで隣り合っている。川沿いに横に長い庭園の中は、よく整えられた草地と、涼しげな木立が広がっている。木々の間を縫うように続く土の小道を歩いていくと、ところどころに有名な詩人や小説家の胸像が立てられており、中央には大きな噴水も設置されている。
 春は木々が芽吹き、夏は風が通り抜け、秋は落葉に染まって、冬には雪に閉ざされる。サンクトペテルブルクの憩いの場だ。
「ヴィクトルは、何滑るか決めた?」
 春の日差しを楽しむ人々を横目にのんびりと小道を歩きながら、勇利が尋ねる。
 どこかにバンドでも来ているのか、遠くからジャズの音色が聞こえてくる。
「『ラバーズオンアイス』? まだ詳細も分からないし、決められないよ」
「そうだよね。……でも、ヴィクトルはなんでもすぐ滑れるからなあ」
「勇利は? 愛がテーマなら、『Yuri on ICE』?」
「そう思うんだけど、それもちょっと安易な気がして……」
 うーん、と唸りながら、勇利は顎に手を当てて考え込んでしまう。
 こういう時間が俺は好きだ。
 勇利とスケートのことを話している時間。こういうとき、いつも勇利は最終的にわくわくするようなアイデアを思いついて教えてくれる。……ときどき崖から突き落とされるようなことを言い出すこともあるのが難点だけど。
「『離れずにそばにいて』は?」
「あれはヴィクトルのプログラムじゃん」
「エキシで滑ってるんだから、もう勇利のプログラムでもあるよ」
 目を閉じると、今でも鮮明に思い出せる。
 俺と勇利を結び付けたあのプログラム。動画サイトに投稿されているのを見た瞬間、「呼ばれてる」と思ったんだ。
 バンケットの夜、俺をコーチに誘ったあの子が呼んでいる。こんなにも熱烈に、真摯に、ひたむきに俺を呼んでいる。
 今すぐそれに応えなきゃ。そう思って、俺は日本行きの飛行機に飛び乗ったんだ。知らない土地で暮らすことも、一晩踊っただけの相手のコーチになることも、何一つ不安じゃなかった。勇利が滑った『離れずにそばにいて』がすべてを物語っていたからだ。
「勇利から俺への、大きな愛を感じたよ。あの愛が俺を勇利の元へ導いたんだ」
「ち、ちがう、あれは……」
 勇利が何か言いかけた、そのときだった。 マイクを通した大きな音が突然耳に飛び込んできて、俺たちは思わずそっちに顔を向けた。
「ジャズバンド?」
 噴水前の広場に、人だかりができている。
 どうやらストリートミュージシャンのライブが盛り上がっているらしい。ギター、コントラバス、アルトサックス、カホン。それから、黒人の女性がマイクを持っている。彼女がボーカルなんだろう。
 自然と足がそちらに向かう。曲と曲の合間のMC中らしく、女性はおもしろおかしく自分たちの紹介をしている。思わず笑ってしまうと、勇利が首を傾げた。全部ロシア語だから勇利にはMCの内容は分からない。
「『CD売ってるから買ってね』、って言ってる」
「へえ」
 そんなことを話しているうちに、ドラムス代わりのカホンがリズムを打ち始める。アップテンポのノリのいい曲だ。女性ボーカルがMCの流れでタイトルを宣言し、集まっている人々に手拍子を促す。続いた言葉に、俺はとてもいいことを思いついてしまった。
 リズムに乗りながら、俺はおもむろにジャケットを脱いだ。
 同じくリズムに乗っている勇利のジャケットも脱がせて、近くのベンチに放る。
「え? なんで?」
 勇利の手を取って人込みをかき分け、バンドの前にできたスペースに飛び出る。
「えっ? なんでなんでなんで!? ちょ、ヴィクトル!?」
 問答無用で勇利を引っ張り込むと、ボーカルの女性が歓声を上げた。周囲の観客からも拍手が巻き起こる。
 つんのめった勇利の手を引っ張って立たせる。
「『できれば一緒に踊ってほしい』ってさ!」
「えええ!?」
 勇利の声を無視して、身体をリズムに乗せて揺らす。気持ちのいいスウィング。
 女性が指をパチンと打ち鳴らして俺へ合図する。目線を合わせ、挨拶代わりににっこりと微笑んでから、ぐるりと頭を回した。それが始まりのサイン。
 ヒップウォーク、もったいぶったドラッグステップ、ジャンプアンドターン。手の振りも忘れずに。
 ノってこないの? 楽しいよ?
 そういう意味を込めて勇利を見ると、大きな瞳に挑戦的な光が宿った。
 火がついた。俺はうれしくなって、ますます身体を音楽に乗せる。
 基本的に負けず嫌いの勇利は、ちょっと煽るだけで羞恥心なんてあっという間に吹き飛んで真っ向から勝負してくるんだ。それがダンスともなればなおさら。音楽に合わせて身体を動かすことの喜びを、勇利は誰よりもよく分かっている。
 勇利が眼鏡を投げ捨てた。周囲から歓声が上がる。それに応えるように不敵に笑う。これは知ってる。スイッチが入った時の勇利だ。ピュイ、と思わず口笛を吹く。
 シャッセ、シャッセ、ジャンプ、ターン。ドロップして開脚。そのままやわらかく身体を反らすと、観客からため息が漏れる。
 ボーカルの女性がハイソプラノで歌い上げる。彼女の合図に合わせて、同時にキック。
 楽しい。
 身体中の細胞が歓喜していることが分かる。俺だけじゃない。勇利だって同じだ。音楽を介して、勇利が何を考えているのか伝わってくる。打合せなんて何もしてないのに、同じタイミングでジャンプして身体を寄せる。心と心が響き合っている。楽しくて心地よくて気持ちいい。最高の気分。
 サックスのソロに入ると同時に、勇利が俺に場を譲った。顎をクイッと動かして、俺に前に出るように指示する不遜な態度。「やってみせてよ」。そんな声が今にも聞こえてきそう。
 上等じゃないか。
 フーと大きく息を吐きだす。一度目を閉じて、音楽に耳を澄ませる。観客の見えない目線が俺一人に注がれているのが分かる。……最高だね。
 ブレイクと同時に目を開ける。さあ、まずは俺から。
 トップロックで一回転、キックで反転してから軽やかにウィンドミル。歓声を聞きながらシャッフルダンスでリズムに合わせる。チャールストン、ランニングマン、キックス、キックス、ポップコーン。手拍子が大きくなってきた。いいね、いい調子。激しい動きから一転、パワープレイでフリーズ。ノリのいい観客が煽るような歓声で盛り上げてくれる。最後はアクロバット。バク転でフィニッシュ。
 どう? 勇利?
 上がった息を抑え込みながら勇利の方を見ると、熱のこもった目線にぶつかる。今すぐ踊りたくてしょうがないっていう目。自分も負けないって言わんばかりの目。
 いいね、その目。ゾクゾクするよ。
 ギターのソロが始まると同時に、勇利がクルッと後ろを向いた。すぐさまその身体がふわっと浮き上がって、空中にきれいな弧を描く。まるでイルカのジャンプを見ているような、お手本みたいなバク宙。俺のラストへの意趣返し? いい趣味してる。
 観客の熱狂は一気に勇利に向かった。勇利が髪をかき上げる。誘うような目線。きっと無意識にやってるんだろう。ペロリと唇を舐めて、色っぽく笑う。女性も男性も、見惚れたように息を飲む。
 キレのあるトゥエル。周りを見回しながら、ダブルクラップで拍手を誘う。軽く助走をつけて、空中を蹴り上げるように前転。タッチダウンライズだ。歓声が上がる。左右にステップを踏みながら片足で一回転。急に動きのテンポが変わる。音の流れを無視したようなスローモーション。しなやかに手が伸びて空中で止まる。カチリ、カチリと、プログラムされた機械のような手の振り。ヴォーグダンスの一種だろう。かと思うとまたブレイクダンスのようなステップに戻り、最後にフリーズを決めてフィニッシュ。
 ヴィクトル。そう呼ばれた気がして、俺は自然と片手を持ち上げた。勇利も同じように片手を上げている。
 パチン。
 手を打ち鳴らすと同時に、歓声が弾けた。それを合図にしたように、ボーカルの女性がハイソプラノでクライマックスを歌い上げる。勇利がシャツの袖で汗をぬぐう。目が合う。期待するような瞳の色。見つめ合ったまま背中を合わせてトゥエル。さっきの勇利のダンスをお手本にして、二人で踊る。汗が飛び散る。手拍子が鳴り響く。音楽が、身体の芯にまで沁みこんで、魂まで揺さぶっているように感じる。
「Thank you, guys!」
 ボーカルの女性がマイクを通してそう言ったとき、ようやく曲が終わったことに気が付いた。いつの間にか俺も勇利も動きを止めている。呼吸が苦しくて、酸素を吸い込む。唾を飲みこむと、喉がひりひりと痛んだ。
 夢を見ていたみたいだ。放心したまま勇利の方を見ると、勇利もまったく同じタイミングで、気の抜けた目を俺に向けてきた。そしてまた、まったく同時に俺たちはへらりと笑う。
 楽しかったね。
 本当に。
 言葉にしないまま語り合う。声に出したところで、俺たちを取り囲む大きな歓声に飲まれてきっと聞こえなかっただろう。
 スパシーバ、と言いながらボーカルの女性とハグをする。勇利もおずおずとハグをして、女性が改めて観客にお礼を述べると、歓声と拍手がまた一段と大きくなった。ピューイ、と指笛が鳴り響く。拍手は鳴りやまない。それから、ピロリンという電子音。
 ……電子音?
 あれ? と思っている間に、ピロリン、という音がまた聞こえた。ピロリン、ピロリン、ピロリン、カシャ。
 ……カシャ?
 勇利と顔を見合わせる。その頃にはもう、俺達にもその音の正体が分かっていた。理解するには遅すぎたくらいだ。だって、観客とほとんど同じくらいの数のスマートフォンが俺たちの方を向いていたんだからね。
 勇利が頬をひきつらせる。周囲の歓声が徐々にざわめきに変化していく。
 ボーカルの女性がマイクを通して言った。
「それで、あなたたちは一体何者なの?」
「……えーと」
 俺は言葉を濁す。
 勇利は気まずそうにあたりを見回してから、泥棒みたいな動きで地面に放り投げた眼鏡を拾った。
 周囲のざわめきが大きくなる。その中に、「ヴィクトル」とか「ユウリ」とか、「フィギュア」とか「スケート」とか「写真」とか「サイン」とかいう単語が聞こえ始める。気づくと、俺たちを囲むように半円形に広がっていた観客が、じりじりとその半径を狭めてきていた。
 俺は、いわゆるファンサービスというやつが好きだ。正確に言うなら『サービス』とすら思っていない。みんなが喜んでくれることをするのが大好きなだけだ。
 だけど、その俺から見ても、この状況はちょっと難しいかもしれない。
 夢中で踊っていたから気づかなかったけれど、いつの間にか観客は俺たちが最初に見た時の三倍以上に膨れ上がっていた。その数の人間がじりじりと、俺と勇利を追い詰めるように迫ってきている。まるで壁だ。バンドのメンバーはみんなの目的が自分たちじゃないことを分かっているせいか、面白がるようにその様子を眺めている。
 背中に嫌な汗が流れた。さっきのダンスで流したのとは別の種類の汗。
「……ヴィクトル」
「……うん」
 人垣の切れ目を横目で見ながら、俺たちは深くうなずき合った。
 無言のやりとり。沈黙の圧力。ほんの数秒、凍り付いたように場が動かなくなる。
 噴水で水浴びをしていた小鳥がピッと短い声を上げて飛び去った。
 それを合図に俺は叫んだ。
「逃げろ!」
 俺と勇利が駆け出すのと、じりじりと迫っていた観客たちがワッと距離を詰めたのはほとんど同時だった。
「あははははは!」
「笑いごとじゃないよヴィクトル!!」
 混乱する声と、逃亡を後押しするような声援を背後に聞きながら、俺たちは全速力で庭園の小道を駆けていった。

   ◇

「はあっ、はあっ、はあっ、はあっ……」
 飛び込むように家のドアをくぐった途端、勇利が床に崩れ落ちた。
 庭園から家までの全力疾走。日々トレーニングに励むスケーターといえど、これほどの距離を全力で駆け抜けることなんてめったにない。声を出すことすらままならずに、俺も勇利もしばらくそのまま酸素を取り込むことだけに集中した。
 休日の昼下がり。家の中は静かだ。マッカチンは昼寝でもしているんだろうか。二人分の荒い呼吸音だけが響く。
「……まいた、よね?」
 息も絶え絶えに勇利が言う。
「……だと、思うよ」
 同じく、死にかけのヤギみたいな声で俺が答える。
「あー!!」
 唐突に叫びながら、勇利が両手を伸ばして床に寝転んだ。背骨を引っ張るようにぐっと力を入れて、大きく息を吐きながら力を抜く。
 勇利の真似をして、俺も狭い廊下の隙間に滑り込むようにして床に寝転ぶ。フローリングが冷たくて気持ちがいい。いつもより身体が重い気がするのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃない。もう一秒だって重力に逆らいたくない。川底の石になりたい。そんな気持ち。
「ふふ」
 ふいに勇利が笑った。
「ふふふ」
 つられて俺も笑う。
「ふふふふ……」
「ふふっ……ふふふ……」
「あは……っ、ははは」
「あははは、は……あー……」
 笑いながら、勇利がもぞもぞと芋虫のように動いて俺の肩をつついた。お返しに、勇利の脇腹あたりをくすぐると、一層おかしそうに笑いながら身をよじって避ける。
「何してんのヴィクトル」
「勇利こそ」
「あんなところで踊ったら、動画撮られるにきまってるじゃん」
「勇利だってのってきたじゃないか」
「それはヴィクトルが煽るから」
「あんなに人が集まるなんて思わなかったんだよ」
「もうちょっと有名人の自覚持った方がいいと思うよ」
「えー、それ勇利が言う?」
「僕はいいの」
「じゃあ俺だっていいじゃないか」
「よくない」
「よくある」
「なにそれ」
 並んで天井を見上げながら、ひとしきりくすくすと笑い合う。心地よい疲労感。噴き出すように流れ出していた汗がようやく止まり始める。
「ねえヴィクトル」
 勇利が首だけ横に向けて俺の方を見る。俺も同じように首を横に向けて、勇利の顔を見る。
 汗でしっとりと額に張り付く黒い髪。深い色の大きな瞳が、いたずらを思いついた子供みたいに輝いている。
「『ラバーズオンアイス』のことなんだけど……僕、いいこと思いついちゃった」
「奇遇だね。俺もだ」
「先に言っていい?」
「ダメ。俺だって言いたい」
「じゃあ、せーので言おうか」
「OK」
 せーの、と息を合わせて、俺たちはそれを口にする。
「ペアで踊ろう!」
 少しのずれもない、完璧なユニゾン。
 言い終わると同時に噴き出した。俺だけじゃない。勇利も笑っている。
「やっぱりそう思った?」
「ヴィクトルも?」
「思うに決まってるよ。だってすっごく気持ちよかった」
「うん、僕も。みんなも絶対気持ちよくなってくれる」
 心と心が通じ合っている。
 その実感がじわじわと心の中に広がって、胸の奥が熱を持ち始める。ひとりでは触れることのできない熱。誰かと一緒でなければ感じることのできない喜び。勇利と一緒でなければ、たどり着けない場所。
 勇利と、一緒でなければ。
 そう思うと同時に、不思議なことが起こった。身体の中の熱がぶわりと一気に膨らんだんだ。
 まるで風船が弾けたみたいだった。指の先まで熱の奔流が駆け巡り、頭の芯がしびれたようになる。
「ヴィクトル?」
 不思議そうな顔で、勇利が俺を見た。
 その、大きな瞳。
 汗で額に張り付く前髪。
 マシュマロみたいにやわらかそうな、白い頬の丸み。
 身体中の血が、一気に逆流したような気がした。息がしにくい。心臓がうるさい。ドキドキと、大きく鼓動している。
 一体どうしたんだ? 俺に何が起こっている? まるで、自分の身体じゃないみたいだ。心の中で、「勇利」と唱えると、身体の細胞ひとつひとつがざわめく。
 勇利。勇利。勇利。勇利。
「ヴィクト……」
 そっと手を伸ばした。触れるのが怖い。でも、触れたくてたまらない。指先で頬に触れると、勇利の身体がビクリと震えた。白い肌は、指の腹にしっとりと吸い付くようだ。静かに息を吐きだす。勇利の大きな目が、俺の顔にくぎ付けになっている。俺は今、どんな顔をしているんだろう?
 そのまま俺たちは黙って見つめ合った。笑い声の余韻が、まだ天井の隅に残っている気がする。薄暗い廊下。その底に沈みこんで、俺たちは深海魚みたいにじっとする。まるで二人でひとつの生き物のように。
 免疫。……と、俺は思う。
 全部、免疫がなくなったせいなんだろうか。勇利を見て、こんな風な気持ちになるのは。数日も一緒に暮らせば、消えて何事もなく過ごせるようになるものなんだろうか?
 俺には、そうは思えない。
 少なくとも、今は。
 勇利の大きな目が潤んでいる。うっすらと涙の膜ができているようにも見える。いつもこんなに潤んだ瞳をしていたの? そうだとすれば、それはなんだか、ちょっと卑怯だ。
 吸い寄せられるみたいに、俺はその顔に自分の顔を近づけた。何をしようとしているのかは、自分でもよく分からない。ただ、本能に従っただけだ。そうしたいと思うままに、俺は勇利の頬に触れた。そして、今はその欲望が勇利のくちびるに向いている。赤くやわらかそうなそこに触れたい。心臓の音がうるさい。
 触れたい?
 触れたい、だけのわけがない。
 俺は、そこに……。
「ゆう……」
「あー!!」
 唐突に大きな声をあげて、勇利がガバッと上体を起こした。俺はびっくりして思わず身体を反らした。
「マッカチンの水換えてない!」
「え?」
「換えてないないよね!?」
「そういえば、引っ越しの荷ほどきで忘れてたかも」
「わー! ごめんマッカチン!」
 勇利が慌ててキッチンに向かうと、目を覚ましたのか、マッカチンがクウンと鳴き声を上げる。楽し気なふたりのやりとりを耳で追いながら、俺は身体を起こして、自分の手のひらを見つめる。勇利の頬に触れていた手。
 俺は、今何をしようとしたんだろう?
 勇利に、何をするつもりだった?
 指先がまだじんじんと熱を持っている。指の腹をこすり合わせる。勇利のすべらかな頬の感触が指先によみがえって、思わず深くため息をついた。
 何なんだ、一体。
「ヴィクトルー、マッカチンのおやつどこー?」
「キッチンの棚の上だよ」
 答えながら、ふたりのいるキッチンへと向かう。勇利は背伸びをしながらシンクの上の棚を探っていた。
 その姿を見ても、心臓は静かなままだ。
「そっちじゃなくて、こっち」
「あ、そっちか」
 勇利、と心の中で唱えてみる。
 勇利、勇利、勇利。
 それでも心臓は静かなままで、本当にさっきのはなんだったんだろうとひとりで首をかしげる。
「ほらマッカチン、おやつだよ」
 ジャーキーを掲げる勇利の前で、マッカチンがいい子でおすわりをする。穏やかな気持ちでその光景を眺めながら、俺は何気なくさっきの話の続きを口にする。
「また勇利とペアで滑れるなんて楽しみだな。愛がテーマならぴったりだよ」
「……うん」
 俺はそのとき、勇利の様子が少しおかしいことに気が付かなかった。思い返すと、マッカチンを相手にするのだって唐突だった。でも俺は勇利の様子にまで意識を向けられなかった。
 俺自身が勇利のことをどう思っているのか、それを考えるだけで頭がいっぱいだったんだ。
「勇利が滑った『離れずにそばにいて』の動画も最高だったしね。ふたりならもっと……」
「あれは違うよ」
 固い声で勇利が遮った。
「あれは、ゆうちゃんのことを考えながら滑ったんだよ」
「……え?」
「ヴィクトルのことじゃない」
 そこでようやく俺は気がついた。勇利の耳が真っ赤になっていることに。
「ヴィクトルじゃ、ないよ」
 ざわり、と、うなじが逆立った。
 その感触に戸惑う。胸の中がざわついている。さっき勇利に触れたときに感じたざわめきとは違う。自分の中に、まったく新しい物体が生まれたような感覚だ。今、この瞬間。
 そいつは、黒く濁った色をしている。ドロドロとして、陰気で、変な匂いがする。つかみどころがない。けれど、確かな質量を持って、それは俺の中に存在する。
 なんだこれは? 気持ちが悪い。こんなのは初めてだ。どうしてこんな気持ちになる? ごく普通の会話だったはずなのに。
 でも、その黒い塊は、一向に消える様子を見せない。それはまるで生き物のように、俺の中でゆっくりと寝返りをうつ。
 俺はどうしてしまったんだろう?
 頭の中に、勇利の言葉がこだまする。
 ――ゆうちゃんのことを考えながら滑ってたんだよ。
 ――ヴィクトルのことじゃない。
「……そう」
 俺のことじゃ、ない。
 俺のために滑っていたわけじゃない。
「優子だったんだ」
 自分の声が、まるで他人が言ったみたいに空々しく聞こえる。
 勇利の真っ赤な耳をじっと見つめながら、俺は奥歯を強く噛んでいた。
 痛いくらい、強く。


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