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僕たちは欠けている

Prologue

 ベターハーフって知ってる?
 奥さんやパートナーのことを、ときどき英語でそう表現するんだ。
 一説によると、神話の時代、もともとひとつだった俺たち人間を、神様がふたつに分けたことに由来しているらしいよ。
 運命の半身。魂の片割れ。ナイフで半分に割ったオレンジのもう一方。
 初めてその話を知ったとき、俺はずっと伸ばしていた長い髪を切った。
 どうしてかって?
 それは分からない。あんまり昔のことだから、もうすっかり忘れちゃったよ。俺って忘れっぽい性格なんだ。
 でも、ともかく俺は髪を切ることを決意して、ひとりでバスルームにこもったんだ。
 日曜の午後は晴れていて、曇りガラス越しにやわらかな光が差し込んでいた。花の匂いがしたな。あれは多分、リラの花だ。春の日だったんだろう。開け放ったドアの横にはマッカチンがいて、「何してるの?」って言いたそうな顔で首をかしげてた。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
 リビングからかすかに聞こえてくる音楽に合わせてハミングした。ヤコフに譲ってもらった古いラジオからは、ノイズ交じりのラブミーテンダーが流れていた。
 シャキ、シャキ、シャキ。
 小気味のいい音を立てて鋏が動く。銀色の細い髪がパラパラとタイルの上に落ちて広がる。マッカチンが右に傾げていた頭を左に傾ける。
「できた!」
 全体をざっと整えて、俺はそう宣言した。
 鏡の中にいる自分は、すっかり別人に生まれ変わったみたいだった。心なしか顔立ちまで違って見える。
 サイドの髪先はギザギザしていてみっともない。後ろはもっとひどいだろう。それでも俺は満足だった。新しい世界に足を踏み入れたような、希望に満ちた気分だった。
 希望。
 そう、希望だ。あの日、俺の胸は確かに希望にあふれていた。
 何に希望を感じたんだっけ?
「××××××××××」
 鏡に向かって何か言う。でもその部分だけ無声映画みたいに音が消えていて、うまく思い出せない。鏡の中の青い目が笑っている。
 春の光。リラの匂い。タイルに広がる銀の髪。軽くなった頭と、ギザギザの髪先。日曜の午後の、ちょっと眠たいような寝ぼけたような、あいまいな空気。首をかしげるマッカチン。
 それから、ノイズ交じりのラブミーテンダー。
 あのとき俺は、なんて言ったんだっけ?


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