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僕たちは欠けている

#2

 その動画は、今も動画サイトで再生数を伸ばし続けている。
 俺が勇利のコーチになって勇利が結果を残すようになると、その動画はますますみんなの間で語り継がれるようになった。勇利の昔からのファンはもちろんのこと、新しくファンになった人も、俺のファンだった人も、俺たちのファンとすら言えないような、たまにテレビでフィギュアスケートを見るだけの人たちさえ、繰り返しその動画を再生して話題にしている。
 俺と勇利の、始まりのプログラムとして。
『ゆうちゃん? そりゃ仲いいわよ。幼馴染だもんあの子ら』
 スマートフォンの小さな画面の中で、ミナコが言った。今はスナックにいるのだろう。後ろの棚には、日本語のラベルのついた酒瓶がオーケストラの奏者のように規則正しく並んでいる。
『勇利がスケートを始めたときなんてさ、「ゆうちゃん、ゆうちゃん」って毎日うるさかったわよ。あの頃はまだゆうちゃんたちの方がスケートが上手でね。勇利はヒヨコみたいにゆうちゃんの後を追ってばかりいたっけ』
 ミナコは指先で髪の毛をいじりながら遠い目をする。まるで親が子供の思い出話を話しているようだと思う。
 勇利には家族以外にもこうして見守ってくれる人がたくさんいる。みな、心優しくあたたかい人たちばかりだ。それも長谷津で一緒に過ごして知ったことのひとつ。それが勇利の強さの一因であることも、俺はよく知っている。
『憧れだったんだろうね。確か、ヴィクトルのことを勇利に教えたのもゆうちゃんだったよ。その頃にはもう勇利はアイスキャッスルで一番……ううん、日本でも一番くらいにスケートが上手になっててね、ゆうちゃんは「勇利君とヴィクトルが戦うところを早く見たい」って何度も言ってた。勇利もすっかりその気になって、それからずっとアンタのことを追っかけてたんだよ』
 分かっている。ミナコが勇利を支えているように、長谷津の家族が勇利を支えているように、優子だって勇利を支えてくれる大事な友人だ。俺は勇利のコーチとして、彼らのことも大事にしたい。彼らが勇利にとってかけがえのない人たちだと知っているから、勇利の愛するその人たちを、俺も同じように愛したい。
『ああ、あの動画? あれはゆうちゃんに向けて滑ってたのを三姉妹が勝手に撮影してアップロードしたんだって。すごいわよねあの姉妹。誰に似たんだか……ん? 愛? ゆうちゃんに対して? ……まあ、そりゃあるでしょう。ていうか、勇利も複雑だったのかもね。幼馴染同士が結婚して、自分ひとりだけ残されたらさ』
 愛したい、のに、どうしても、濁った気持ちが抑えられない。腹の底からあふれ出すような醜い感情を、無視することができない。
『さすがにもう気持ちの整理はついているだろうけど。あの動画は、ケジメのつもりだったんじゃない?』
 整理はついている?
 本当に?
 脳裏に、勇利の横顔がよぎる。固い口調。赤く染まった耳。ごまかすように不自然な態度。
『……ってアンタ、なんて顔してんの』
 自分がどんな顔をしているのか、ミナコに指摘されてもよく分からなかった。

   ◇

 ブレードが氷を削る。
 硬質な音を立てながら、銀の刃が氷上を滑る。しなやかな脚の動き。
 一瞬、勇利の身体に力が入る。
 まるで、飛び立つ前の鳥が力をためるように、重心が下がって、視線が上を向く。
 そう、そこだ。
 腋を締め、カッと音を立てて踏み込み、宙を舞う。ピンと伸ばされた脚。回転する身体。汗のしずくが光を反射する。
 あ、と思う。
 思っている間に、身体の軸がわずかにぶれる。止まりかけの独楽みたいに回転が乱れる。両手が開く。バランスをとって、着地。両足をついて、なんとか踏ん張る。
「もっと集中して。最後まで気を抜かない」
「はいっ!」
「体幹を意識して。軸がぶれてる。踏み込みはよかったよ」
「はいっ!」
「成功するイメージはある?」
「あります!」
「じゃあもう一回」
「はいっ!」
 パン、と手を叩く。はじかれたように勇利が顔を上げる。袖で額の汗をぬぐう。つらそうだ。でも勇利の体力ならまだ余裕があるはずだ。やる気は言うまでもない。
 スピードに乗って、前を見据える。風になびく黒髪。集中の糸が目に見えるようだ。張り詰めた空気。ふう、と小さく息を吐く。
 わずかに膝を曲げて、上を見る。一瞬、呼吸が止まる。
 いける。
 軽々とした跳躍。まるで、そこだけ重力がなくなったみたいに。その一瞬だけ時間が拡大されて、動きがスローモーションになる。一回、二回、三回、四回。安定した回転。
 再び氷の上に戻ってきたときには、もう着地の姿勢を整えている。ガツッという硬い音。それと裏腹に、衝撃を感じさせないやわらかな膝の動き。そのまま流れに乗って次のステップを踏む。
 周囲からため息のような声と、遠慮がちな拍手が聞こえてきた。
 勇利のスケートは美しい。ロシアに来て、それはますます洗練されたように感じる。
「OK、今の感じを忘れずに」
「はいっ!」
「一度通してやってみよう。いける?」
「はいっ!」
 ドリンクを手渡すと、勇利は息を整えてから勢いよく煽った。疲れは見えない。むしろ瞳は生き生きと輝いている。
 勇利のこういうところが好きだ。スケートに対してどこまでも真剣で、どこまでも真摯な姿勢。
 グランプリファイナルで現役続行を決めてから、勇利は以前より貪欲になった。それまでは、自分の限界を悟っているような節があって、スケートにもどこかそういう部分が表れていた。でもあの大会で、特にユリオのフリーを見てから勇利は変わった。何か思うところがあったみたいだ。今は「限界なんて感じたことはない」と言わんばかりの堂々とした滑りを見せてくれる。それは若いころは誰しも持ち合わせている気力のようなものなのだと思う。誰もが持ち合わせていて、そして誰もが段々と失っていくもの。
 コーチとして、ライバルであるひとりの競技者として、そんな勇利を前にすると心が震える。勇利が望む高みへと、俺が導いていかないと、と思う。……いや、導く、という言葉は正しくない。勇利はもう、俺が一方的に手を引いてあげられるような選手ではなくなった。同じ位置に立って、ともに進むべき道を探すような、パートナーでありたいと思う。
 これまでも。そしてこれからも。
 でも最近俺は、そういう風に考えると決まって心の奥に引っ掛かりを覚えるようになった。まるで、美しい絵画に一点落ちた黒いインクの染みのように、小さいけれどつい目をやってしまう引っ掛かり。
「これが終わったら、後でラバーズオンアイスの候補曲聞いてくれない?」
 勇利の言葉に、内心を見透かされたような気がして背筋がひやりとした。
 ラバーズオンアイスで滑る予定のペアのプログラムは、勇利が曲を選んで俺が振り付けをすることになっている。
「もちろんいいよ。もう絞れたの? ずいぶん悩んでたみたいだけど」
「実はあんまり。これっていう軸が見つからなくてさ。ヴィクトルの意見も聞きたくて」
「じゃあ後で時間を取ろうか。持ってきてる?」
「携帯に入れてあるよ」
 勇利と滑るペアのプログラム。
 勇利と滑るってだけでワクワクするはずなのに、俺はいつまでもあのことを気にしている。
 勇利と滑ったもう一つのペアの曲。『離れずにそばにいて』。
 俺たちの始まりのプログラム。
 悩んでいた俺に進むべき道を示してくれたあのスケートは、俺に向けられたものではなかった。勇利には俺ではなくて、別に大切な人がいて、あのスケートはその人に捧げられたものだった。
 そのことを考えると、いつも気分が悪くなる。胸の奥がもやもやと苦しくなって、落ち着かない気持ちになる。
「なんで?」と言いたくなる。
 なんで俺じゃないの?
 どうして俺じゃなかったの?
「……クトル? ヴィクトル?」
 俺だけを追いかけてきたんじゃないの?
 俺のためにずっと滑ってきたんじゃなかったの?
 勇利が好きなのは……。
「ヴィクトル!」
 はっとして顔を上げると、いぶかしげな視線とぶつかった。
「どうしたの? ぼんやりして」
「……いや、なんでもないよ」
「大丈夫? なんか最近ぼーっとしてること多くない?」
「そうかな?」
「体調悪いの?」
 いけない。振り切るように頭を左右に振って、意識して笑顔を浮かべる。胸の中の引っ掛かりは無視する。
「そんなことないよ」
「……そう?」
 深い色をした大きな瞳。俺の大好きな、勇利の目。
 真っ直ぐ前を向くその目が好きだったはずなのに、今はそれを向けられることが少し怖い。何もかも見透かされてしまいそうな気がして。
 俺の心の奥にうごめく、真っ黒で汚い感情に、気づかれてしまいそうで。
「ねえ、ヴィクト……」
「えー、アンタたちまだ練習すんの?」
 明るい声が勇利の声を遮った。
 振り向くとミラがいる。ちょうど練習が終わったところらしい。首筋に流れる汗をタオルでぬぐいながら、呆れたように俺と勇利を交互に見る。
「ちょっとやりすぎじゃない?」
「勇利は体力があるからこれくらいは軽くこなしてくれるよ」
「わー、きっびし」
「僕も練習するの好きだから」
「でも勇利、オーバーワークはだめだからね。これが終わったら今日はもうおしまい」
 勇利の場合、練習しないことよりもしすぎることの方が問題だ。勇利は不安定になりがちなメンタルを練習量で補っているところがある。もちろん、その習慣が今の勇利のスケートを完成させたんだけれど、この歳になると氷の上に立つ時間は意識してセーブしなければならない。オーバーワークは怪我にも繋がる。
 釘を刺されたと感じたのか、勇利が軽く口をとがらせながら「分かってるよ」と答える。それを見たミラが感嘆の声を上げた。
「マジでちゃんとコーチしてるじゃん」
「俺はいつだって真面目だよ」
「信じらんないわ、あのヴィクトルが」
「それどういう意味?」
 まあまあ、と答えになっていない答えで返しながら、ミラがなだめるように俺の肩をポンポンと叩いた。……まあ、自覚はないわけじゃない。ヤコフの言うことを散々無視してきた俺が、今は立派なコーチ面して勇利に同じようなことを言ってるんだ。ヤコフが俺たちの練習風景を見て複雑な顔をするのも頷ける。
「ともかく、さっさと終わらせてミーティングルームに来てよ。みんな集まってるから」
「ミーティングルーム? なんで?」
 勇利が首を傾げる。俺も心当たりはない。全体ミーティングの予定はなかったはずだ。それとも、緊急でみんなに知らせることでもできたのだろうか。
「ヤコフが呼んでるの?」
「ううん」
「じゃあリリア?」
「違うよ」
 ますます分からない。ヤコフでもリリアでもなかったら、一体誰が全員を招集するというんだろう? 何のために?
 ミラは一瞬遠くに視線を投げると、はあ、とため息をついてこう言った。
「ギオルギーが呼んでる」
 俺と勇利は顔を見合わせる。
 一秒、二秒、三秒……。
「ギオルギー?」
 二人分の疑問の声が、ぴったり重なってリンクに響いた。

   ◇

「愛! それは永遠なる人類のテーマであり人生の目的。愛のない人生など無意味だ。愛のない世界など無価値だ。人は愛のために生まれ、愛のために生き、そして愛のために死ぬ……。愛! そのはるかな頂のなんと美しいことか。なんと崇高なことか。できることなら私は、その高みを目指し続ける探求者でありたい……」
「つまりどういうこと?」
「新しい女に惚れたんだってさ」
 勇利の疑問にミラがあっさりと答える。ホワイトボードの前で恍惚と演説していたギオルギーが厳しい目線を二人に向けた。
「今まさに説明していたところだというのに!」
「いやアンタの口上聞いてもさっぱり分かんないから。要するに、『好きな人に渡すラブレターの中身を一緒に考えてほしい』ってだけでしょ?」
「はあ!? そんなことのために呼んだのかよ! クッソくだらねえ」
 一番端の椅子に座っていたユリオがテーブルを蹴る。
 くだらないと言いつつ出ていかないということは、実はちょっと興味があるんだと俺は見た。それか、一人になるのは寂しいのかもしれない。ああ見えてユリオにも年相応にかわいいところがあるんだ。
 ミーティングルームには俺と勇利、ミラとユリオ、ひとりだけ前に立つギオルギーがいる。俺たちが部屋に入ったのと入れ違いで何人かリンクメイトたちが出て行ったから、多分みんなギオルギーの演説だけ聞いて帰っていったんだろう。
 その気持ちは痛いほど分かる。ギオルギーは恋多き男で、すぐ『運命の人』を見つけてはひとりで盛り上がっているのが常だ。恋は盲目、というのか、生来の真面目な気質が災いするのか、恋に関しては思いこんだら一直線、周りの忠告なんて耳を貸そうともしない。だから、ギオルギーに恋愛関係の話を振ってはいけない、というのがチムピオーンにおける暗黙の了解になっている。
 そんな彼がこうやって俺たちに協力を仰ぐことは滅多にない。それだけ今回は本気だということなのかもしれない。
「勇利、どうする?」
 隣に座っている勇利に小声で問いかけると、弱り切った顔をした。
「うーん……僕たちまで帰ったらちょっとかわいそうかな……。めんどくさいけど」
「めんどくさいけどね」
「本当にめんどくさいけど」
 はあ、と揃ってため息をつく。
 ギオルギーがバン、と大きな音を立ててホワイトボードを叩いた。ワオ、水を得た魚みたい。
「クリスチーナは純情可憐な乙女だ。少し話しかけただけで赤面してうつむいてしまう。そんな彼女を怖がらせずにお近づきになるためにはラブ・レターが必要不可欠! こちらからの愛を表明し、かつ可能ならば連絡先を聞き出す。崇高だが高難度のミッションであることは言うまでもない……」
「誰だよクリスチーナ」
「カフェの店員だってさ」
「ああ、あのリンク併設の?」
「俺前に話したことあるよ。でも恋人いるんじゃないかな?」
「いなくてもギオルギーじゃ無理でしょ」
「ええい、うるさいうるさい! いいから黙って案を出せ! その草案をもとに私が本文を書き上げる」
 そう言って、ギオルギーは手早く白紙のコピー用紙を全員に配った。ミラが「マジなんだ……」と顔を引きつらせながら呟く。ユリオもぶつぶつ文句を言っていたが、ギオルギーは気にした様子もなく、さらさらとホワイトボードに条件を箇条書きにする。
 クリスチーナ、カフェの店員、純情可憐、奥ゆかしい、ラブレター、連絡先……。
 そして最後、空いたスペースのど真ん中に、とりわけ大きな字で、『愛について』と書いて丸で囲った。
「各々、自分の好きな人へ書くつもりで案を出してほしい。愛とは何か、どうしたら自分の胸にある愛を表現できるのか、真剣に考えるのだ。愛というものに向き合うことは、ひいては自分の人生に向き合うことでもある。スケートでの表現力も磨かれるだろう」
「うわー、すっごいこじつけ」
「こんなんで演技が変わるわけねえだろ」
「まあまあ二人とも……。俺は、ギオルギーの言うことも一理あると思うよ」
 俺がそう口を挟むと、ミラとユリオが眉根を寄せながらこっちを向いた。ギオルギーだけが得意げに鼻を膨らまして頷いている。
「普段、愛について考えるなんてこと滅多にないだろ? ユリオだって、アガペーを完成させるのに時間がかかったじゃないか。今ギオルギーが言っているのは無償の愛とは別の種類の愛だ。かといって、エロスのように単純な性愛としての愛とも違う。エゴイズムと思いやりの中間のような愛。そういうものに対して真剣に向き合うことは、自分の引き出しを増やすことに繋がるんじゃないかな」
「ヴィクトルが言うともっともらしく聞こえるけど……」
「じゃあお前はどうなんだよ。ラブレターとかいうわけの分かんないもの書けんのか? 今ここで!」
「愚問だね。表現力の豊かさとは引き出しの多さだ。常に様々な感情に思いをはせることがスケーターにとって重要なんだよ」
 そう言って、俺は数秒の間黙考する。ホワイトボードに書かれた条件にもう一度目を通してから、そっと視界を閉ざす。
 俺は一人の男だ。リンク併設のカフェのスタッフ、クリスチーナに恋をする一人の男。休憩の度に店を訪れ、俺はドリップコーヒーを注文する。クリスチーナ。栗色の髪。そっと伏せられた瞼。細い指先。
 瞼を持ち上げる。
「『初めて見た時から、僕はあなたに心を奪われた。こんな気持ちは初めてだ。まるで恋を知らない少年のように、毎日あなたのことで胸をいっぱいにしている。あなたが嬉しそうだと僕の心は晴れ渡る夏の空のよう。逆にあなたに会えないと、雨の降る午後のように心が沈んでしまう。あなたの笑顔があれば、僕は世界中のどんな男より幸せになれる。もしよければ、ときどき話をさせてください。もっとあなたのことが知りたいです』」
 すらすらと言葉を紡いでいると、視界の隅で妙な動きをしている物体に気づいた。
 視線を向けると、ギオルギーが必死に目元をシャツの袖でぬぐっている。丸まった背中は小刻みに震えており、時折頬から雫が滴る。どうやら泣いているらしい。
 ユリオとミラが引いたような目でその姿を見ている。実際、二人とも上半身がさっきより後ろに傾いている。
「感動だ! 参考にさせてもらう! メモをとらせてくれ!」
 ギオルギーはポケットから手帳を取り出すと、すごい勢いで鉛筆を走らせ始めた。
「さすがはヴィクトルだ、私の心をここまで的確に表現できるとは。この言葉にはリラの花が似合うな。紫色のリラの花束と共に彼女に送りたい」
「リラ?」
「紫のリラの花言葉は『恋の芽生え』、『初恋』! 覚えておくといい……」
 恋の芽生え。初恋。
 そういう知識はどこで仕入れてくるんだろう? 感心していると、ミラが俺に目線を向けた。
「別にいいけどさ、なんかうさんくさくない?」
「ジジイは元からうさんくさいだろ」
 ユリオまで同意している。あんまりだ。
「俺ってそんなにうさんくさい?」
「すらすら口説きすぎっていうか。大体、『こんな気持ちは初めて』とか、普通に嘘じゃん」
「嘘ではない!」
 陶酔しきって天井を仰いでいたギオルギーがキッと鋭い視線を向ける。
「クリスチーナへの思いは私の初恋だ!」
「いやアイスダンサーと付き合ってたじゃん。別れた後、ファンの子とも食事に行ってたし」
「今まで愛だと思っていたものはすべてまやかしだったのだ。私は幾多の困難を乗り越え、ついに真実の愛を知った……そう! クリスチーナへの愛だ!」
「うわあ……」
 ミラは完全に引いている。俺もちょっと心配になった。人を愛するということはなんにせよ素晴らしいことだ。だからギオルギーの気持ちを否定するつもりはないけれど、ただ彼は盲目すぎる気がする。そうやって思い込んだ後、裏切られたと感じて自分の愛を否定する……彼はそんなことを今まで何度も繰り返している。忠告したところで聞き入れてはくれないだろうけど。
「そんなに言うならミラも案を出せばいいだろう!」
 ギオルギーがびしっと指をさした。さされたミラの頬がひきつる。めんどくさい、と太字で書いてありそうな表情だ。
「あ、あたしぃ?」
「女性の視点からの意見もぜひ聞きたいところだ」
「ええ……」
 そう言いつつも、ミラはちゃんと顎に手を当てて考える。
「もっと普通がいいよ。歯の浮くような言葉じゃなくてさ。例えば……『前から気になっていました。もしよかったら一緒に映画でもどうですか』とか。急に愛とか語られても引くし」
 しん、と一瞬沈黙が流れる。ふう、とギオルギーがため息をついた。
「まあ、一応メモはしておくが……」
「なにその反応! アンタが聞いてきたんじゃん!」
「普通すぎる……」
「普通がいいって言ってんでしょ!?」
「ま、まあまあ二人とも」
 二人をなだめていると、突然ガンッという鋭い音を立てて会議卓が揺れた。見ると、ユリオがテーブルに足を乗せて片手の小指で耳をほじっている。
「どいつもこいつも何が言いたいのか分かんねえ。ぐちゃぐちゃ考えすぎなんだよ」
「ユリオは何か案があるのかい?」
「『俺と付き合うのか、付き合わねえのか』。……これでいいだろ」
 端的だ。恋の駆け引きとしてはどうかと思うが、ユリオらしいといえばユリオらしい。少しだけ、どこかの誰かの言い方に似ていると思ったけれど、思い出せなかった。
 ギオルギーは感心したような顔で頷いている。
「そういうキャラ付けも新しくていいかもしれん」
「いやー、ギオルギーには無理でしょ」
「ふむ。確かに、キャラ変更はリスクが高いか……」
 そこで俺はふと気が付いた。さっきから、勇利がまったく会話に参加してこない。ミラとギオルギーが言い合いになる場面だって、いつもなら俺じゃなくて勇利が間に入っていたはずだ。勇利がロシアに来てから間もないものの、すでにそういう形が出来上がりつつあった。
「勇利は何か……」
 言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
 勇利が、真剣な表情で静止していたからだ。
 声をかけることすらためらわれるほどの集中。ペンを持った右手は机に置かれたまま、ピクリとも動かない。視線は何もない空中に固定されている。まるで、勇利にしか見えない真理がそこに浮かんでいるかのように。
「僕の……」
 虚空を見据えたまま、勇利が呟く。声に出していることすら気づいていないような、小さな声。
「僕の、好きな人……」
 心臓が跳ねた。
 その瞬間、俺には勇利が今何を考えているのか分かってしまったからだ。
 ギオルギーは「自分の好きな人に書くつもりでラブレターの案を考えてほしい」と言った。勇利はそれに素直に従ったんだ。きっと、スケートの表現力を磨くのに役立つと言われたからだろう。俺がもっともらしく同意したせいもあるかもしれない。とにかく勇利は、俺たちが無邪気に言い合いをしている間、本当に自分の好きな人への言葉を考えていたんだ。
 俺がギオルギーになりきって愛の言葉を考えたのとは違う。勇利自身の、本当に好きな人への言葉。
 背中にじわりと汗がにじむ気がした。心臓の音がうるさい。喉がカラカラに乾いているような気がする。
 その疑問を、口にするのが怖い。
 怖い? なんで怖いんだ?
 自問自答しながら、俺の口は気づくと勝手に動いていた。
「勇利、それって……」
 誰のこと?
 ……そう、聞こうと思った、その瞬間だった。
「あー! 日本のユーリがなんか書いてる!」
 ミラがにゅっと顔を伸ばして勇利の手元の紙を覗き込んだ。全員の注目が集まる。
「カツドン、真面目にやってんのかよダッセー」
「日本人の意見もぜひ聞きたいところだ」
「ちょっと見せてよ、日本のユーリ」
 周りが騒いでも、勇利の集中は途切れない。俺たちの声なんて耳にも入っていないようだ。ミラもミラで、勇利の返事を待たずに手元のメモ用紙をさっと抜き取った。
「えーと、なになに……」
 それは、ほんの短い言葉だった。でもだからこそ真実を感じさせる。
 勇利の心からの言葉。
「『あなたがいなきゃ生きていけない』」
 ガタン、と音がした。
 驚いて全員が顔をそっちに向ける。俺の隣では、勇利が椅子を倒さんばかりの勢いで立ち上がっていた。
「ゆ、勇利?」
 勇利は動かない。その目は、相変わらず虚空を凝視したままだ。しかし先ほどとは少し様子が違う。具体的にどこがどうとは言えない。ただ、さっきまで意識を別の世界に飛ばしていたのが、ようやくこの世に戻ってきたように俺には見えた。
「ご、ごめん日本の……」
 ミラが慌てて謝ったのと、勇利が俺の腕を掴んだのは同時だった。強い力で掴まれて、俺は思わず腰を浮かせた。
 そのとき分かった。
 勇利は怒ってなんかいない。いや、そもそも俺たちのことを気にしてすらいない。勇利は、全然別のことを考えていたんだ。
 ときどきそういうことがある。勇利が自分自身で答えを出そうとしているとき。絡み合った思考の糸を解きほぐして、勇利が一番納得する道を見つけだそうとする瞬間。そんなとき、勇利はきまってワクワクするようなアイデアを聞かせてくれる。
 大きな目をキラキラと輝かせて、勇利が俺の顔を覗き込んだ。
「ヴィクトル、リンク行こう!」

   ◇
  
 フィギュアスケートリンクは、人影がまばらになっていた。スケジュールされた個々のクラスは終わり、今は自主練習の時間になっている。チムピオーンでは身体への負担も考えて練習は量より質を優先するよう指導しているから、残っているのはコーチに許可された限られた選手だけだ。
「何が始まるの?」
 俺たちの後を追うように、ミラやユリオ、ギオルギーもリンクにやってきた。勇利は早速スケート靴に履き替えて、今はリンクの中央にいる。
 俺は肩を竦めた。
「俺にも分からないよ」
「びっくりした。日本のユーリ、急にヴィクトルを引っ張って出ていくんだもん」
「バカみてえな会議にうんざりしたんじゃねえの」
「バカみたいとはなんだ!」
 違う、と思う。勇利は、もっと別のことを考えて、何かの答えを出したんだ。それを、俺に見せようとしてくれている。
 リンクにいる勇利が片手を上げて合図を送った。言われていた通りに、俺は勇利の携帯に表示されたプレイボタンを押す。曲名は『サンプル5』とだけ表示されていた。携帯は練習用のスピーカーに繋がっており、リンクの中央にいる勇利にも十分聞こえるくらいの音量が設定されている。
 少しの間をおいて、その曲は静かに流れだした。それと同時に、勇利が踊り始める。
 落ち着いたピアノと、ドラムス。遊ぶようなギターの音。ジャズのリズムに乗せて、ハスキーボイスの女性シンガーが覚えのあるメロディーを歌いだす。
「なんだっけ、この曲」
 ミラの問いに、俺は無意識に答えていた。
「『ラブミーテンダー』……」
 これはアレンジ版のようだが、オリジナルは有名なロックシンガーがギター一本で弾き語るスローナンバーだ。アメリカ民謡としてよく知られたメロディーに、彼が甘い歌詞を乗せたことで爆発的にヒットした。
『愛しているから、愛してくれ』、と、やさしく語りかけるような歌。
 何度も繰り返されるメロディーに合わせて、勇利が氷の上を踊る。ステップを踏み、両手を伸ばし、天を仰いで、背中を反らせる。ジャンプはない。難しい技も入れ込んでいない。ただ即興で踊っているだけなんだろう。思うがままに、感じるままに。
 勇利はやさしく微笑んでいる。歌詞の通り、まるで誰かを深くいとおしむかのように。視線の先に、見えない誰かの姿が見えるような気さえする。
「すげえ……」
 ユリオが呟いた。
 完成された美ではない。時々迷いがあるし、構成だってよくない。音にも合っていない。でも、それにもかかわらず……いや、だからこそ、そのダンスは人を惹きつけてやまない。取り繕われていない、飾り立てられてもいない、どこまでも純粋で、痛みを覚えるくらいむき出しの愛。それが、誰の目にも分かるから。
 じわり、と、心の奥が濁った。とても汚い、目を向けることすらためらわれるような何か。それが、俺の中でそっと呼吸を始める。
 全然違う振り付けなのに、なぜか俺は、踊る勇利の姿にかつての姿が重なって見えた。
 動画サイトの小さな表示エリアの中で踊る、勇利の姿。
『離れずにそばにいて』。
 俺の知らないところで、俺じゃない大切な人に向けられたスケート。
 それは、とても……。
 気が付くと、俺は両手に力を込めていた。手の中には、紙がある。小さく折られた白いコピー用紙。その上に、迷いを振り切るような堂々とした文字で、短い言葉が並んでいる。
『あなたがいなきゃ生きていけない』。
 勇利は笑いながら踊っている。まるで、身体で音楽を奏でるように。全身で愛を語るように。
 力を込められた紙の両端に、引きつれたような皺が生じる。
 それは、とても。
 それは、とても……。
 

 ピアノが最後の和音を鳴らした。同時に、勇利が腕を上げた状態で静止する。
 いつの間にか残っていた選手全員が勇利のスケートに注目していた。練習に励んでいた人も、帰り支度を始めていた人も、誰もが勇利の邪魔をしないようにリンクサイドに寄って場所を開けている。
 注目を集めていることにようやく気付いた勇利は、戸惑いながら日本人らしくちょこんと首を曲げてお礼をする。周りからは自然と拍手が巻き起こった。
 照れくさそうに頭をかきながら、勇利がこっちにやってくる。
「どうだった?」
 勇利は多分俺に言ったんだけど、俺が何か言うより先にミラが身を乗り出した。
「すごいよ日本のユーリ! これ来シーズンのプロ!?」
「いや、ラバーズオンアイスってアイスショーで、ヴィクトルと一緒に滑ろうかなって思ってるんだけど……」
「ハッ、またペアかよ。ウッゼエな」
「素晴らしかった……。深い愛を感じたぞ、ユウリ・カツキ」
 みんなが口々に勇利をほめる。でも、俺だけはひとり、一歩も動けないまま固まっていた。手の中のメモ用紙がなぜだかひどく重い。その重さに押さえつけられているみたいに、勇利の元に行くことができない。
 勇利がふと顔を上げて、俺を見る。
「どうだった、ヴィクトル?」
 無邪気な笑顔。勇利のその表情が好きだ。見てると俺までうれしくなる。
 うれしくなる、はずなのに、今はなんだか、とても苦しい。
「振り付けはまだ適当だけど、ああいうイメージでやりたいんだ。ひたむきで、純粋で、なんていうか……自分にはその人しかいない、って言うような。運命っていうと、大げさだけど」
 苦しくて、痛い。勇利が言葉を紡ぐたび、きりっ、と痛みのようなものが胸に走る。
「ヴィクトルなら分かってくれるよね?」
 喉が詰まる。言葉が出てこない。息もできないような気がする。
 それでも無理矢理絞り出すようにして、俺は答える。だって俺はコーチだから。コーチは生徒の質問に、誠実に答えなくてはならない。
「……もちろんだよ。いい選曲だと思う」
「よかった! ずっと悩んでたんだけど、さっき急にイメージが湧いたんだ」
『さっき』って、それは、愛の言葉を考えていたとき?
 勇利が本当に好きな人に向けた言葉を考えていたとき?
 言葉を飲み込む。脳裏に今見た勇利のダンスと、『離れずにそばにいて』の動画がオーバーラップしてちらつく。胸の奥で、嫌な感情がうごめく。手の中で、力を籠められたメモ用紙がかさついた音を立てた。
『あなたがいなきゃ生きていけない』。
 言葉が、勇利のスケートの映像にぐるぐると絡みつく。美しいはずの両者が、混ざりあい、溶け合って、よく分からない醜い塊になって腹の底へ落ちていく。息が苦しい。めまいがする。それなのに、考えることをやめられない。
 呪文を唱えるように、心の中で繰り返す。その度に重苦しさが増していく。
 あなたがいなきゃ生きていけない。
 あなたが、いなきゃ、生きて、いけない――……。
「……だれ?」
「え?」
 気づくと、口に出していた。その声の冷たさに、自分で驚く。でも、止められなかった。
「『あなた』って、誰?」
 勇利は質問の意味がよく分からなかったらしい。わずかに首を傾げた後、俺の手の中にあるメモ用紙に気づいて目を瞠った。
「だ、ダメっ!」
 俺の手から紙をひったくると、勇利は即座にそれを背後に回して隠してしまう。
 見る間にその顔が赤く染まっていく。反比例するかのように、俺の心は冷たくなっていく。
 ねえ、ちゃんと言ってよ。
 隠し事なんてしないでよ。
 勇利の言葉で、はっきり教えてよ。
 そしたら、俺だって。
 自分の内側が、真っ黒に染まっていくような気がした。じわりじわりと、病原菌が浸食していくみたいに。
 そしたら、俺だって。
 俺だって……。
「ヴィ……ヴィクトルには、関係、ないよ……」
 頬を染めながら、弱弱しい声で勇利が言う。
 そのとき俺は、頭の中に、勇利と並んだ優子の姿を思い浮かべた。
 小さな肩。大きな瞳。信頼に満ちた視線のやりとり。気安い会話。
 初めて、人を憎いと思った。


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