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僕たちは欠けている

Epilogue

 ベターハーフって知ってる?
 そう問いかけると、勇利は不思議そうな顔で俺を振り向いた。
「なに、突然?」
「ただの雑談だよ。緊張がほぐれるかと思って」
 リンクに続く通路で、俺たちは顔を寄せ合って小声でやりとりする。照明は落とされていて、リンクのスポットライトが時折俺たちのところまで届いて舐めるようにふたりの姿を照らし出す。
 リンクでは今、俺たちの前の演目が行われているところだ。ラバーズオンアイス――タイで開催される初めての本格的なアイススケートショーは、観客席を埋めつくす人と歓声とともに幕を開けた。
 当初の予定通り出演することになった俺と勇利は、これから数分後に世界で誰も見たことがない新しいプログラムを披露する。
 そのプレッシャーからか、勇利は少しナーバスになっていて、さっきから何度もリンクの様子をうかがっている。その緊張をほぐそうと俺はふと思いついた話を振った。
「ベターハーフって、確か奥さんのことだよね?」
「そういう意味合いで使われることが多いね。でも奥さんに限らず、人生を共に歩むパートナーを広く指す言葉だよ。その言葉の由来は知ってる?」
 勇利はしばらく考えるそぶりをして、それから諦めたようにちょっと笑って首を傾げた。
「知らない」
「一説によると、神話の時代、もともとひとつだった俺たち人間を、神様がふたつに分けたことに由来しているらしい」
「へえ」
「運命の半身。魂の片割れ。ナイフで半分に割ったオレンジのもう一方」
 そう言ってじっと勇利の目を見つめる。わずかな光源の中で、その大きな目は濡れたように輝いている。
「俺のベターハーフは、勇利だよ」
「……あっ、そういう話?」
「そういう話のつもりで始めた」
「てっきりスケートの話になるのかと」
「スケートの話だ」
 大きな目が、いたずらっぽく細められる。
「スケートだけ?」
「人生の話でもある」
 勇利が声もなく笑う。少し照れくさそうに、でも幸福そうに。俺まで幸せな気分になって一緒に笑う。
「ねえ、キスしていい?」
「……いちいち聞かないでよ」
 それは、勇利流のYESだ。俺が何度も何度も確認を取るから、最近は半ば呆れている。『もう二度としないでほしい』と言われたことが俺の中で軽いトラウマになっているせいだとは、まだ気づかれていないみたいだ。ずっと気づかなくていい。そのうちこの確認もなくなるだろう。
 暗闇の中で、そっと顔を寄せる。
「ん……」
 くちびるにやわらかな感触がある。薄い皮膚と皮膚が触れる。ただそれだけのことなのに、頭の芯がじんと痺れて、指先まで多幸感に満たされる。
 本番前なので、深いキスはできない。触れた時と同じようにそっと顔を離して、代わりのように間近でじっと見つめ合う。それだけでもいいんだ。心のどこか……ひとりでは埋められない隙間が、じんわりと満たされていくのを感じる。きっと勇利も同じものを感じているはずだ。
 俺たちは欠けている。否応なく、どうしようもなく、避けがたく、決定的に欠けている。きっと誰しもがそうなんだろう。俺たちはみんな、この世に生まれたときから大事な何かが欠けていて、その欠損を補うために人と人とは出会うのだろう。欠けた部分を求める姿は、ときに見苦しく、不格好かもしれない。だけどそうして生きる人の姿は、他のどんなものより美しいと俺は思う。
 勇利がそっと俺の手をとった。あたたかい手のひらは、緊張のためか少し汗ばんでいる。
「みんな喜んでくれるかな?」
「喜んでくれるよ。スタンディングオベーションだ」
 冗談めかした言葉に、勇利がおかしそうに笑う。
 リンクに響く音楽が変わった。何度も耳にした、懐かしいメロディー。控えめな歓声が聞こえる。
 俺たちを待つ、たくさんの人の声。俺たちがふたりで生きる世界の音。
「ヴィクトル」
 勇利が一度大きく深呼吸してから、俺に手を差し出した。
「一緒に踊ってくれますか?」
 顔を上げる。勇利が俺を見ている。大きな瞳が、真っ直ぐに俺を見ている。照れくさそうに、ほほ笑みながら。
 俺たちは欠けている。でもだからこそ、他のどんなものより美しい。
 笑いながら、その手を取った。
「喜んで」
 ふたりで滑るプログラムは、『ラブミーテンダー』。
 やさしく愛して、と、語り掛けるような歌だ。


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2018/12/26 ありがとうございました。
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