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僕たちは欠けている

#6

 音楽が聞こえる。
 なつかしいメロディー。ぽろん、ぽろんと響くギターの音色。かすれた歌声。
 ノイズ交じりのラブミーテンダー。
 リビングのラジオは音楽局の周波数を捉えている。シャキ、シャキ、とかすかな音を立てる鋏。タイルの上に散らばる銀髪が、春の日差しを受けてきらきらと光っている。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
「何してるの?」って言いたそうな顔で、首を傾げるマッカチン。
 甘い匂い。リラの花の匂い。よく晴れた日曜日の匂い。希望の匂い。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
 鏡の中で、髪の短くなった若い自分が視線を投げかける。ギザギザの不格好な髪形。笑った目。弧を描くくちびる。
 音もなく、その口元が動く。
「××××××××××」
 声は聞こえない。代わりに、ずっと音楽が聞こえている。甘く、切なく、祈るような歌声。
 ノイズ交じりのラブミーテンダー。

   ◇

「馬鹿馬鹿しい」
 自分の声を聞いてはっとした。いつの間にか考えていることを口に出ていたらしい。ため息をついて、首を振る。疲れているのかもしれない。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 その言葉が、本当に「俺はこの先もずっと、勇利にとってコーチ以外のものになれない」という意味だったとして、それがなんだっていうんだ?
 コーチ以外にはなれない? そんなのは当然だ。当たり前のことだ。
 俺は勇利のコーチだし、そうであることに誇りを持っている。それ以外の何になる必要がある? 何になるつもりでいる?
 馬鹿馬鹿しい。勇利は、そんな意図であの言葉を口にしたわけじゃないだろう。俺が考えすぎているだけだ。勇利はこの街でずっとスケートを続ける。そして、俺はこの先もずっと勇利のコーチだ。その言葉をそのまま信じていればいいだけだ。難しく考える必要なんてない。今勇利が家にいないのだって、どうせ……。
 そこまで考えてようやく気付く。携帯を確認していなかった。
 慌ててベッドルームに戻って、充電してあったスマートフォンをアンロックする。画面が明るくなるのと同時に、勇利からのメッセージがポップアップした。
『変な時間に目が覚めちゃったから、もう出発するね。見送りはいらない。クリスによろしく』
「……そんなことだろうと思った」
 苦笑しながら「OK」とだけ返し、ついでにクリスにも事の次第を説明するメッセージを送信して、スマートフォンをポケットにしまう。マイペースなところのある勇利のことだ。こういうこともあるだろう。
 勇利は日本へ帰る。向こうでは、みんなが勇利を歓迎するだろう。優子と話をする時間があるかもしれない。だけど、それ以上は何も起こらない。一週間したら勇利はこの家に帰ってきて、日本でのことを話して、また俺とスケートをする日々に戻る。それだけだ。何も、何一つ変わることはない。
 俺たちは、何も変わらない。
 この先もずっと。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 突然、耳の奥にまた勇利の声がよみがえって戸惑う。
 どうしてこんなにも、あの言葉が気になるんだろう? 俺は何をそんなに気にしてる? 俺はこの先もずっと勇利のコーチだ。その宣言は、本来は喜んでしかるべき言葉のはずだ。
 なのに、胸の中に暗雲が立ち込めるように苦い気持ちが広がっていく。心のどこかが、勇利の言葉に抵抗しようとしている。でも、何に?
 もう一度思い出してみる。俺たちの物語のこと。俺と勇利の文脈について。
 勇利がロシアにやってきて、俺と暮らすことになった。俺はうれしくてたまらなかった。引っ越しの日に、外で一緒にダンスを踊った。心と心が繋がる実感があった。でも、かつて勇利が滑った『離れずにそばにいて』が優子に向けられたものだったと知って、俺は一気に苦い気持ちになった。
 ギオルギーが恋をしたので、みんなで恋文を書くことになった。勇利は優子に対する愛を言葉にし、スケートでも表現した。俺は優子のことを憎いと思ってしまった。
 日本に帰るという勇利にあたって、くだらないケンカをした。仲直りをしたとき、衝動的にキスをした。勇利は許してくれたけど、もう二度としないでほしいと言った。悲しい気持ちになった。
 勇利は優子に対する想いを叶えるために、リラの花のおまじないに縋った。俺はそれが許せなくて、もうそんな恋は忘れろと言った。恋とスケートを天秤にかけた勇利はスケートをとった。泣き腫らした目で、全部忘れたと俺に言った。
 そして、あの日だ。勇利と合わせたラブミーテンダー。スケートとしてはうまくいっているはずなのに、俺は勇利との間に壁があるように感じた。勇利は俺を海に誘った。そして、声もなく俺に『さよなら』と言った。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 そう言って、吹っ切れたように、笑ったんだ。
 その場面を思い出した瞬間、胸がきゅう、と痛くなった。
「……?」
 左胸に手を当ててみる。心臓の真上。それは問題なく動いているようだ。でも、締め付けられるような苦しさは続いている。
 首を傾げる。それだけじゃない。何かが気になっている。俺と勇利の文脈を考えると、そこに何かの答えがあるような気がする。
 勇利の不可解な行動について? わざわざ海に行ったり、声もなく『さよなら』と言ったり……。いや、違う。
 その文脈は何かを意味している。勇利のことじゃない。俺自身のことだ。俺自身の、心の動きのことだ。
 勇利と踊った場面がフラッシュバックする。上気した頬。汗に濡れた黒髪。言葉がなくてもお互いの考えていることが手に取るように分かった。うれしそうに細められた、大きな瞳。そのとき俺は、どう思った? 何を感じて、何を考えた?
 その文脈は、何かを意味している。
 だって、俺の行動は。
 それは、まるで――……。
 思考がどこかに辿り着こうとした、その瞬間、リビングの方から物音がした。
「……マッカチン?」
 ベッドルームを出てあたりを見回すと、廊下の途中でマッカチンが首を傾げていた。それはちょうど勇利の部屋の前で、扉がわずかに開いている。マッカチンが開けたのだろうか? 今のは、その物音だったのかもしれない。
「勇利はもう行っちゃったよ。そこには誰も……」
 言いかけて、気づいた。
 マッカチンは、部屋の中を気にしていたんじゃない。その扉の前に落ちているものを気にしていたんだ。
 近づいて、膝を折る。マッカチンは不思議そうな顔で、ふんふんと床の匂いを嗅いでいる。その鼻先にあるものを指先で拾い上げる。
「リラの花……?」
 それは、紫色のリラの花だった。しかもその花弁は、見事に五枚に分かれている。
 五枚のリラの花。
「どこから、こんなもの……」
 薄紫の花弁はみずみずしく張りつめている。まるで、つい今しがた外から摘んできたようだ。でも、誰が? 一体、どこから?
 不思議に思ってあたりを見回した。そして、俺の視線はある一点に吸い寄せられた。
 小さく開いた勇利の部屋のドア。廊下の光が細い光の道筋のようになって、俺の視線を中へと誘導する。道の先にはデスクがあり、デスクの上には小さな白い紙が置いてあるのが見える。どういうわけか、その存在がたまらなく気になった。
 見なければいけない、と、思った。何かが、俺をどこかへ導こうとしている。そんな気がした。
 ゆっくりと主のいない部屋のドアを開けた。光の道が大きく広がる。その中心にある小さな紙は、まるでそれ自体が白く発光しているかのように、おぼろげに輝いている。
 一歩一歩、踏みしめるようにして近づく。一歩近づく度に、頭の中で音がする。思考が整理される音。俺が自分自身を理解する音。
 ロシアに来た勇利。
 優子に嫉妬した俺。
 衝動的なキス。
 勇利の拒絶。
 ――この先もずっと、僕のコーチだ。
 勇利と一緒に踊ったときの、心と心が通じ合うような瞬間。あの歓喜。
 心がきしむ。胸の奥が痛いくらいに締め付けられる。鼓動が大きくなる。手の中のリラの花を痛切に意識する。五枚の花弁のリラの花。叶えられなかった願い。
 何かが……いや、何もかもが、俺をひとつの答えへと導く。
 紫色のリラの花。その、花言葉は――。
 勇利のデスクに置かれた白い紙を手に取る。そこには、短い言葉がある。書いた人の誠実さを表現しているかのような、几帳面な文字。
『あなたがいなきゃ生きていけない』
 その瞬間、すべてを理解した。
 ああ。
 ああ、もっと、早く気づくべきだった。
 脳裏に、勇利の笑顔がよぎる。ポタリ、とかすかな音を立てて、白い紙の上に雫が落ちる。もっと、もっと、もっと、早く気づくべきだった。
 紫色のリラの花。
 その花言葉は、『恋の芽生え』、『初恋』。
 恋の芽生え。初恋。
「バカだなあ、俺……」
 まばたきすると、ひときわ大きな涙の雫が落ちた。
 どうして今まで気づかなかったんだろう? 俺の心はこんなにも勇利に向かっていたというのに。こんなにも、こんなにも、ただひとりを求めていたというのに。
 ――あなたがいなきゃ生きていけない。
 勇利なしの生活なんて、考えられないほどに。
 コーチのままで、いるつもりなんてなかった。それよりずっと近い存在でありたかった。誰よりも勇利の傍にいたかった。友達より、幼馴染より、初恋の人より、家族より、この世にいるどんな人より、勇利の傍にいたかった。他の誰にも渡したくなかった。そこにいるのは、俺じゃないとだめだった。……知らなかった。
 この感情を、恋と呼ぶんだ。
 これだけ長く生きてきて、初めて知る。恋って、こんなに切ないものだったんだ。切なくて、にがくて、苦しい。涙がこぼれるのを止められないくらい。俺は、今ようやく俺の恋のために泣いている。
 知っている。勇利は俺じゃなくて別の人を想っている。別の人に恋をしている。つらくて当たり前だった。だって、俺は勇利が好きだったんだから。勇利を、愛していたんだから。
 こじれた糸が、頭の中でするするとほどけていく。「俺は勇利を愛している」。それを認めるだけで、今まで分からなかった様々なことが分かってくる。勇利の周囲に対して抱いていた気持ちも。認めたくないほど醜い感情も。
 頭の中で、勇利と共に過ごした様々なシーンがかけめぐった。まるで映画の総集編のように、言葉や表情がめまぐるしく切り替わる。あのときも、あのときも……あのときだってそうだ。俺は勇利を想っていた。勇利が笑ってくれると嬉しかった。勇利が他の人を好きだと悲しくなった。俺の心はいつだって、勇利ひとりに向いていたんだ。
 しかしその映像は、ある地点でぴたりと止まった。止まると同時に、俺は背筋が凍り付くような気がした。
 そのシーンは、ごく短い。実際に俺がほんの一瞬しかそれを目にしていないからだ。でも、その刹那の時間はスローモーションのように拡大されて頭の中に流れる。
 澄み渡る空と、きらきらと輝く海。さみしげに笑う勇利。そのくちびるが、音もなく動く。
 ――『さよなら』。
 俺は目を見開いた。手の中の紙を、強く握りしめる。
 勇利が何を思ってその言葉を口にしたのか、本当のところは分からない。でも、今勇利を行かせてしまったら、俺たちの間にある何かが終わる……そんな気がする。そしてそれは、きっともう二度と元には戻らない。一度失われてしまえば、もう二度と俺たちが無邪気に心を繋げ合うことはない。勇利が最初にこの街にきたあの日のように、本当の意味で共に踊ることはできない。
 今を逃したら、きっともう俺は、勇利にとってコーチ以外のものにはなれない。
 握った拳で、目元をぬぐう。
 泣いている、場合じゃない。
「行かなきゃ……!」

   ◇

 俺の行動は早かった。
 やることなんてひとつしかない。財布と携帯をポケットに突っ込み、マッカチンのご飯だけ用意して、文字通り家を飛び出した。
 勇利に電話をかけてみたが、コール音が響くだけで勇利が電話に出ることはなかった。偶然気づいていないだけかもしれないし、俺からの電話だからあえてとらないのかもしれない。わざわざひとりで空港に向かったことを考えると、後者の気がしてならない。「話したいことがある」とだけメッセージを送ったが、返信は期待しない方がいいだろう。
 フライトの時間を考える。今から空港に向かっても、搭乗までには余裕があるが、勇利が早めに搭乗ロビーに向かっていたら俺には追うことができなくなる。勇利が保安検査場に入る前に捕まえる必要がある。急がないと。
 タクシーを捕まえようと道路に目を向けた、そのときだった。すぐそばでプッと短くクラクションが鳴った。その方向に目を向けた瞬間、俺は確信した。
 何もかもが俺を導いてる!
「おはよう、ヴィクトル。迎えはいらないってどういう……」
「空港だ!」
 視線の先にいたのは、真っ赤なオープンカーに乗ったクリスだった。迎えはいらない、というメッセージは送信してあったが、状況が呑み込めないからとりあえず俺の家まで来てみたというところだろう。そこにちょうど、血相を変えた俺が飛び出してきた。
 尋常じゃない様子に驚いたのか、クリスはぽかんと口を開けている。俺はかまわず叫ぶ。
「勇利が空港に! 追いかけないと!」
 何の説明にもなっていない。でもこの優秀な友人はすぐに自分が今何をすべきなのか理解したらしい。いつも穏やかな目つきが鋭くなり、親指で後部座席をくいっと示した。
「乗って!」
 ドアを開けるのももどかしくて、走りこんだ勢いのままドアの縁に手をついてジャンプする。ひらりと身体を翻し、下半身がシートに収まったか収まらないかのうちにクリスがアクセルを踏み込んだ。急激な加速度がかかって、小さく悲鳴を上げる。態勢をくずしながらもなんとか堪える。
「しっかり掴まってな!!」
 普段の彼らしからぬ、ドスのきいた低音と共に、エンジンが低い唸りをあげる。タイヤが悲鳴のような声を上げた。慣性を馬力とテクニックで無理矢理制御するような、強引なドリフトで駐車列を抜け、車はそのまま大通りへと飛び出した。
「ワオ……」
 こんな一面があるだなんて知らなかった。状況も忘れて唖然としていると、悠々とクラッチを切りながらクリスが口を開く。
「聞かないよ」
 バックミラー越しに目が合う。丸い眼鏡の奥で金色の目がいたずらっぽく笑っている。
「勇利より先に、君の気持ちを聞くわけにいかないしね」
 数秒、俺はぽかんとバックミラーを見つめる。クリスは言うだけ言って満足したのか、視線を正面に戻してハンドルを握りなおす。
 急にまた横の加速度がかかり、ギャリギャリギャリ、とゴムとアスファルトが摩擦する高い音が鳴り響く。追い抜いたトラックがプーッとクラクションを響かせたが、クリスは気にした様子もなくただ小さく口笛を吹いただけだった。
 この男、どこまで理解しているんだろう? 俺ですら、ついさっき自分の気持ちに気づいたところだというのに。
 思わず額に手を当てる。まったく、かなわない。
「ひとつだけ聞いてもいい?」
 かなわないついでに疑問を口にする。
 またバックミラー越しに目が合った。了承の意をくみ取って、俺は続ける。
「好きな人がいる子に愛を告白する男をどう思う?」
「イケてる」
 即答だ。思わず噴き出した。
「イケてるかな?」
「イケイケ」
 声を上げて笑いながら、俺は勢いをつけて身体を後ろに倒した。視界に青い空が広がる。そのまま宇宙へ飛び出していけそうなほどの青。
 みっともなくたっていいんだ。逆にみっともないことが何よりもイケてる。
 そういう生き方の方が、多分ずっといい。
 目を閉じる。

   ◇

 ねえ、勇利。
 君に、伝えたいことがあるんだ。

   ◇
 
 キーッ、と甲高いブレーキ音を鳴らして車が止まった。
「ありがとうクリス!」
 言うが早いが車から飛び出して、空港のターミナルへ続く自動ドアへと駆け出す。走りながら後ろを振り返ると、クリスは車のドアに肘をかけて片手をヒラヒラと振っていた。
「今度おごってね」
 もちろん。フルコースをご馳走するよ。
 ターミナルの自動ドアをくぐると、すぐさま電光掲示板に目を走らせる。勇利のフライトは……あった! 『On Time』の表示に舌打ちする。こういうときに限って時間通りだ。いつもは平気で遅れるくせに。
 空港にはたくさんの人がいる。この中から勇利ひとりを探すなんて可能なのか? 縋るような思いで携帯に目を走らせるが、案の定勇利からの返信はない。……可能か不可能か、じゃない。やるしかないんだ。視界にアジア人の姿が映らないか注意しながら、チェックインカウンターへと急いだ。
 神経質そうな顔をしたスタッフを捕まえて、勝生勇利がもうチェックインを済ませているかどうかを確認する。荷物を預ける必要があるはずだから、済ませていなかったらカウンターを見張っているだけで済む。……三つのカウンターを同時に見張るという行為を「だけ」と表現していいものかどうかの判断はひとまず保留しておくとして。
 航空会社スタッフは、打鍵音を響かせながら手早く履歴をチェックした。神経質そうだが美人な女性だ。きっと仕事もできる。考えているうちに、彼女はごく落ち着いたトーンで、マニュアルを読み上げるみたいに答えた。
「ユウリ・カツキさんはもうチェックインをお済ませになられています」
 最悪だ。じわりと嫌な汗が噴き出した。
 チェックインを済ませたら、普通はその足で手荷物チェックを受けて出国審査へ進む。保安検査場へは航空券がないと入れないから、勇利がそこを通ってしまえばもう俺には後を追うことはできない。
 最悪だ。
 ありがとう、と言い終わるか終わらないかのうちに走り出した。
 時間がない。間に合わないかもしれない。勇利は俺を置いて行ってしまうかもしれない。脳裏にあの映像が何度もちらつく。
 さみしそうな笑顔で、『さよなら』と言った勇利。
 俺たちはもう二度と、心を通わせることはできないかもしれない。
 大きな塊のような不安が、身体の奥からせりあがってきて胸を詰まらせる。……いや、落ち着け。大丈夫だ。まだ間に合う。間に合わせる。
 ビジネスマン風の男にぶつかりそうになり、嫌な顔をされる。アラビア系の家族の真ん中を突っ切って子供がしりもちをつく。母親の怒鳴り声を聞きながら心の中で謝る。別れを惜しむカップルの横を通り過ぎ、お年寄りにぶつかりそうになったのをすんでのところで避け、なぜか全員が全員巨漢の団体客の間を縫うようにすり抜けて、周囲の人の好奇の視線にさらされながらも走る。
 勇利。君に、伝えたいことがあるんだ。
 カウンターから保安検査場まではそう遠くない。しかしその短い距離が、今の俺には果てしなく長く思えた。
 やっと検査場の列までたどり着き、息を整える間もなく蛇腹状に伸びる列に目を走らせる。
 ドッドッドッと、心臓がうるさいくらいに拍動している。落ち着け。自分に言い聞かせる。空港とはいえ、ロシアにアジア人は少ない。勇利がいたらすぐ分かるはずだ。落ち着いて探すんだ。
 アジア人、男性、黒髪……。
 心の中で唱えながら、視線をゆっくりと右から左に動かす。――いない。端まで来たら、次の列に移って左から右へ。――いない。次の列に移って、もう一度。――いない。
 いない。いない。いない。いない。
 冷たい汗が背中を伝った。列に並んでいる人は残り少ない。後は今まさに検査を受けるという人たちだけ……。
 そこに目線をやった瞬間、心臓が凍った気がした。
「勇利!」
 黒髪のアジア人。やぼったいTシャツをきた背中が、今まさに身体検査のゲートをくぐろうとしている!
「待って、勇利!」
 パーティションポールのゴムをくぐり、列を無視して一直線にそこへと向かう。割り込まれた人が迷惑そうな顔をする。後ろで誰かの叫ぶ声がする。でも俺には、もうあの背中しか目に入らない。今まさに、俺の手の届かないところに行こうとしている、その背中しか。
「勇利! お願いだ、待ってくれ! 伝えたいことがあるんだ!」
 聞こえていないのか、それとも聞こえていてあえて無視をしているのか、勇利はこちらを振り向きもしない。淡々とボディチェックを受けている。
 そのとき、ぐっ、と突然後ろに力がかかって、転びそうになった。それ以上先に進めない。いつの間にか、俺の横には空港スタッフの制服を着た男たちがいて、両側から俺を押さえていた。騒ぎに気付いてかけつけたらしい。俺は無我夢中で抵抗した。
 お願いだ、行かせてくれ。どうしても、俺は行かなきゃいけないんだ。今じゃなきゃだめなんだ。やっと気づいたんだ。ようやく分かったんだ。
 勇利に、伝えなきゃいけないことがあるんだ。
 でもそんな俺の思いが、何も知らないスタッフに伝わることはない。必死の抵抗もむなしく両腕を抱えられ、ずるずると列の外に引きずり出される。
「勇利……!」
 視界の真ん中には、勇利の背中がある。
 ここまできたのに。あと少しなのに。ほんの数メートルで手が届くのに。
 勇利はこちらを振り向きもせず、その足を踏み出す。俺の手の届かない場所へ。もう二度と触れられないところへ。
 待ってくれ。行かないで。俺の話を聞いてくれ。大事なことなんだ。
 届かないことが分かっていながら、俺の前から消えようとするその背中に手を伸ばす。
 待って、待って、待って! 待ってくれ!
「勇利!!」
「なに?」
 その瞬間、俺は完全に動きを止めた。身体だけの話じゃない。思考まで止まった。いわゆるフリーズというやつだ。
 今、どこから声がした?
 急に抵抗をやめた俺の身体を、これ幸いと空港スタッフが隅の方へと引きずっていく。両脇を固められている様はまるで刑務所に連れていかれる受刑者のようだ。もっとも、騒ぎを起こした不届き者という意味で、スタッフにとっては似たようなものなのだろうが。
 俺の視界は相変わらず保安検査場のゲート付近に固定されている。そこにはもう俺が追いかけた背中はなかったが、俺の心は落ち着いていた。というより、フリーズしたままだった。
 十分な時間をかけて、ゆっくりと顔を横に向ける。
 そこには、ひとりの男がいぶかしげに眉をひそめて俺を見ている。
「何してんのヴィクトル……?」

   ◇

 引きずられる俺の顔を覗き込みながら横を歩いていたのは、黒い髪に青い眼鏡にダサいTシャツ……まぎれもなく勇利その人だった。
「……勇利こそ、なんでここにいるの?」
「いや僕は普通に保安検査しに来ただけだから」
「あそこにいた人が、てっきり勇利かと……」
 あそこ、と保安検査のゲートをさすと、勇利は呆れた顔をした。
「人違いして騒いでたの?」
「だって、勇利はもう検査を終えてるか並んでいるところだと……」
「チェックインしてから時間があったからコーヒー飲んでたんだよ」
「黒髪のアジア人で……」
「日本行きの飛行機なんだからそりゃ僕以外にもいるって」
「Tシャツがダサい……」
「気に入ってるんだけど」
 勇利だ。放心したように俺は思った。
 勇利がいる。
 空港スタッフに事情を聞かれている間も、俺の頭にはほとんどそのことしかなかった。だから受け答えもほとんどまともにできなくて、勇利が横でフォローしてくれて、どうにか事情を説明することができた。曰く、「人違いでした」。空港スタッフは迷惑そうな顔で改めて俺たちに注意をしてから去っていった。
「ホントにもう、こんなことやめてよね。ただでさえ目立つんだから……」
 ぼやきながら勇利が歩き出そうとする。咄嗟にその手をとった。勇利が驚いたように振り向く。
 勇利。
 勇利がいる。
「携帯……」
「え?」
「携帯、見た?」
 首を傾げながら、勇利が携帯を取り出す。俺が送ったメッセージには気づいていなかったらしい。手早く文面を読んで、呆れたように顔をあげる。
「話、って……そのためにここまできたの?」
「大事な話なんだ」
 勇利の顔が強張る。俺の緊張が伝わったのかもしれない。大きな目におびえたような光が宿る。掴んだ手に反射的に力を込めた。
 逃げないで。どうか話を聞いて。縋るような気持ちだった。
「俺にとって……いや、俺たちにとって、すごく大事な話」
「……電話でいいのに」
「会って話したかったんだ。勇利が日本に帰ってしまう前に」
 勇利が無言で俺の目を見つめた。俺も何も言わずにその大きな目をじっと見つめ返す。ほんの短い時間のはずなのに、途方もなく長く感じられた。空港の高い天井に、運行状況を知らせるアナウンスが響く。カタール空港行は設備点検のため三十分の遅延……。
 自分の心臓の音が聞こえる。耳のすぐ後ろで、うるさいくらいに。興奮しているのか、それとも緊張のためか、手が少し震えているような気もする。勇利に、バレていないといいんだけど。
 勇利に、伝えたいことがある。
 考えてみれば、誰かに愛を告白するなんて、人生においてこれが初めてだ。誰かからされることはあっても、自分からすることなんて今まで一度もなかった。受け入れることは楽だった。ただその人の求めるものを返せばいいだけだから。その代わり俺から何かを求めることもなかった。……知らなかったな。受け入れてもらうことがこんなに怖いことだなんて。
 知らなかったんだ。人を愛するということがどういうことなのか。たったひとりの人を求めるということが……誰かに、恋をするということがどういうことなのか、俺はついさっきまで知らなかった。それがどんなにつらくて苦しいことなのか、俺はずっと分かったふりをしていただけだった。
 優子を想う勇利の気持ちがどういうものなのか、今、ようやく分かった。
 小さく息を吐いて、目を伏せる。落ち着け、と自分に言い聞かせる。鼓動はちっともおさまらない。それどころか、どんどん大きくなっている気すらする。苦しいくらいに。 
 諦めてまた目線を持ち上げると、大きな瞳とぶつかった。俺を真っ直ぐに見つめる目。
 そう、この目だ。この目を諦められなかった。
 ねえ、勇利。
 君に、伝えたいことがあるんだ。
「……自分のことをかいかぶっていたんだ」
 自然と滑り出た言葉は、今の俺の気持ちそのものだった。
 飾りつけもごまかしもない。格好もつけない。きっと見ようによってはみっともなくてかっこ悪いだろう。でも、そのままの俺の姿。
 恋をする、ひとりの男の姿。
「もっと自分はできた人間のつもりだった。実際、うまくやってたと思う。ひとりでなんでもこなしてきた。生活も、人生も、満たされてると思ってた。スケートだって思い通りに滑れる。……ときどき、欠けた部分に目がいくことはあったけど、それは爪でひっかいた傷みたいな、些細なものにすぎないと思っていたんだ。でも……」
 言葉を切って、刹那の間に考える。勇利がこの街にきてからのこと。勇利と一緒に暮らして、勇利と一緒にスケートをして、前よりもいっそう勇利の近くで過ごすようになった日々のこと。きらめくような毎日のこと。
「でもね、勇利と暮らすようになってから、今まで知らなかった自分の姿が見えるようになってきた。それが全然ダメなんだ。醜い嫉妬をしたり、わがままなことを考えたり、勇利を傷つけたり、傷つけたことに自分が傷ついたり……。全然、ダメなんだよ。俺は、完璧なんかじゃなかった。こんなはずじゃないと思ったこともあった。こんなのはおかしい、何かの間違いだ、って。だけど、間違いなんかじゃなかった。……気づいたんだ。ようやく、分かった」
 頭の中には、あの言葉が渦巻いている。デスクに残された小さな紙片。勇利が記した愛の言葉。紫のリラの花に込められた願い。
 ――あなたがいなきゃ生きていけない。
「勇利がいなきゃ生きていけない」
 俺の声と勇利の声が、頭の中で完璧にシンクロする。
 気持ちが溢れて、声が詰まる。鼻が痛い。泣きそうになるのを、必死で我慢する。せめてもっと堂々と言えたらいいのに、こういうときに限って弱弱しい声になる。どんな大会のインタビューでも、こんな無様な姿をさらしたことなんてないのに。
「俺はもう、ひとりじゃ生きていけない。ダメなんだ。勇利のいない生活なんて考えられない。……例え勇利が他の誰かを愛していても、俺のこの気持ちは変わらない。こんなこと言われて、勇利は迷惑かもしれない。だけど、ごめん……」
 緊張と恐怖で眩暈がする。だけど伝えたい。受け入れられなくても、愛されてなくても、この恋が、叶うことがなくても。
 震える声で俺は伝える。
「勇利のことを、愛してるんだ」
 ――愛されてないことが分かってるのに、『愛して』なんて言えない。
 かつて、勇利はそう言った。俺たちがふたりで演じようとしているあの歌のように、「愛してほしい」と無邪気に言うことなんてできない、と。
 確かに言えない。だから、愛してくれなくてもかまわない。勇利には別に愛する人がいることは分かっているから、その人のように想ってくれなんて思わない。ただ、今と同じように、傍にいることを許してくれるだけでいい。
 勇利は顔を伏せている。表情が見えなくて、今何をどう思っているのかは分からない。困っているんだろうか。沈黙が、すべての答えであるような気もする。
 ごめんね、勇利。
 もう一度そう言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。
 手が震えていることに気づいたからだ。俺の手じゃない。俺が掴んでいる方の手。――勇利の手が。
 慌てて視線を上げると、視界の端で小さなものが瞬いた。それが何か分かる前に、新しい輝きが現れてはまた消えていく。
 数秒の間をおいて、俺はようやくそれが何なのか理解した。
 涙の雫が、ぽたぽたと零れ落ちていた。勇利はうつむいて身体を強張らせている。震えながら、声もなく泣いている。
 それが、勇利の答えだった。
 頭を鈍器で殴られたような気がした。分かりきった答えだ。分かっていたけれど、いざ目の前にするとこんなにもショックを受ける。全身の力が抜けていくような気がした。視界がぐらぐらと揺れて、眩暈がする。頭の片隅で、もうひとりの自分が呆れたようにため息をつく。分かっていたことだろう? 勇利は俺のことなんか好きじゃない。好きだと言われたって困るだけだ。
 でもすぐに、俺がショックを受けている場合じゃないことに気が付いた。俺なんかより、勇利の方がずっとショックを受けているはずだ。信頼していたコーチに突然こんなことを言われたら、気持ち悪いに決まってる。悲しみに暮れそうになる気持ちを頭を振って切り替えて、勇利の顔を覗き込む。
「勇利、ごめ……」
「……ったの、……トル……ん……」
「え……?」
 俺が謝るのと同時に、勇利が何か呟いた。押し殺した声だったのでほとんど聞き取れない。でも何かを俺に訴えかけようとしている。
「今、何て言った?」
 俺がそう尋ねるのと、勇利がガバッと音がなりそうなくらい勢いよく顔を上げたのは殆ど同時だった。
 勇利は泣いていた。頬を涙で濡らし、くちびるを震わしながら泣いていた。
 泣きながら、怒っていた。顔を見るだけで分かる。涙で濡れた瞳がキッと吊り上がっている。ついでに眉毛も。
「諦めろって言ったのヴィクトルじゃん!!」
 ターミナルに響き渡るような大声。周囲の人がぎょっとしたようにこちらを見る。勇利は俺をにらみつける。俺はぽかんと口を開けてその視線を受け止める。
「…………えっ?」
「ヴィクトルが、諦めろって言うから……忘れろって、言うから……だから、僕……僕は……っ」
 言葉は途切れた。勇利の目元に新たに涙の山が盛り上がり、耐えきれなくなって零れる。大粒の涙が次々と盛り上がっては頬を伝う。呼吸は乱れ、時折引き付けを起こしたような音も混じる。
 勇利が眼鏡をとって、目元をこする。だけど涙は止まらない。それどころか、一層激しくなる。
「ヴィ……トルが……っ、忘れ、ろって……」
「ご、ごめん、どういうことか分からない。俺が? 忘れろって?」
「ヴィクトルが……遊びで、キスするから! ……だから、僕、ぼくは……」
 どうにかそれだけ言って、勇利はわっと声を上げて泣いた。もう我慢する気もなくなってしまったのか、わあわあと声を上げて子供のように泣きじゃくる。俺は必死で思考を働かせる。
 俺がキスするから?
 遊びで?
 忘れろって言った?
 諦めろって?
 ひとつの結論に辿り着きかけて、意識的に思考を止める。だってそんなはずない。そんなことありえない。そんな都合のいいこと、あるわけない。
「さよならなんて、言いたくなかった……」
 必死に自分を止めようとする思考を打ち消すように、勇利が叫んだ。
「僕だってずっと好きだった!」
 動いたのは、衝動だった。きっと本能がそうさせたんだろう。
 もう、二度と離したくない、と。
 気づいたときには、腕の中に勇利がいた。その体温、その呼吸、その鼓動、その匂い、存在すべてが、俺の腕の中にある。信じられるか?
 最初、わずかに抵抗をした勇利も、強く抱きしめると観念したようにおとなしくなって、肩口に顔を押し付けてなおも泣いた。
 信じられる? 信じられない。だけど、信じるしかない。信じたいんだ。――そんな気持ちをこめて、強く強く抱きしめる。
 勇利は泣いている。もう泣かなくたっていいのに。悲しいことなんて、ひとつもないのに。それとも、それは喜びの涙なんだろうか。俺が今泣きたくなっているように。
「嘘じゃない?」
「ヴィクトル……こそ……」
「嘘じゃない。世界で一番愛してる」
「僕だって……ずっと、好きだった……」
「ずっとってどれくらい?」
「ずっと前……ずっと、ずっと前」
 嘘みたいだろ? でも本当なんだ。俺の腕の中には確かに勇利がいる。その手が遠慮がちに俺の背中に回った。確かめるように手のひらが俺の背中を撫でる。そしてゆっくりと、力を込めて俺を抱きしめた。
 信じられる? 信じるしかない。もう俺には、それしか道はない。
 勇利が、俺の手の中にいる。
「ねえ勇利、俺たち話さなきゃいけないことがたくさんあると思うんだ」
「うん……」
 やわらかな黒髪に、鼻先を押し付ける。甘酸っぱい匂いがする。記憶の奥底がくすぐられるような気がした。この匂いは……。
 勇利が顔を上げて、濡れた目で俺を見た。くすぐったそうに笑う。
「なんだか僕たち、ボロボロだね」
 その瞬間、思い出した。
 そうだ、そうだったんだ。全部、全部思い出した。
 どうして忘れていたんだろう?
 鼻先をかすめたのはリラの花の匂い。あの日と同じ匂い。日曜日の午後の匂い。
 ずっと伸ばしていた髪を自分で切ったあの日の、確かな希望の匂い。
 確信をもって、俺は答える。
「欠けているから、好きになったんだ」

   ◇

 音楽が聞こえる。
 なつかしいメロディー。ぽろん、ぽろんと響くギターの音色。かすれた歌声。
 ノイズ交じりのラブミーテンダー。
 リビングのラジオは音楽局の周波数を捉えている。シャキ、シャキ、とかすかな音を立てる鋏。タイルの上に散らばる銀髪が、春の日差しを受けてきらきらと光っている。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
「何してるの?」って言いたそうな顔で、首を傾げるマッカチン。
 甘い匂い。リラの花の匂い。よく晴れた日曜日の匂い。希望の匂い。
「ラ、ラ、ラ、ラ……」
 その日、誰かからベターハーフの話を聞いて、気づいたんだ。それは大きな発見だった。まるで未来に明るい光が差したように感じた。
 そう。そうなんだ。俺は完璧な人間ではなかった。俺だけじゃない。みんな半身を失っているんだ。完璧な人間なんてどこにもいない。
 どんなにスケートがうまくても、どんなに人にもてはやされても、ひとりで完成する必要なんかない。ひとりで生きていく必要なんてない。強がる必要も、嘆く必要もない。悲観する必要もない。ただ、希望を抱いてその日を待っていればいい。俺にもどこかにいるはずだ。
 運命の半身。魂の片割れ。ナイフで半分に割ったオレンジのもう一方。
 だから、ずっと伸ばしていた髪を切ったんだ。
 神様の造形物から、人間へ。
 アンドロギュノスからただの人へ。
 男でも女でもある存在から、ただの男へ。
 欠けた半身を探す、不完全な存在へ。
 鏡の中で、ギザギザの髪をした自分が笑う。完璧には程遠い。無様で、不格好で、みっともなくて、でもそれが正しい姿であることを俺は知っている。
 俺は笑う。笑いながら口を開く。
 それは希望の言葉。
「僕たちは欠けている!」


 あの日から、ずっと待っていたんだ。
 君に出会う日を!


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